伏し待ちの月/達富 洋二

いつから暮らしているのか坪庭の一匹のこおろぎが鳴いている。少し開けた窓からひんやりした風と透き通る声が流れてくる。本をめくる指先が少しだけ冷たくなってきた。◆飲み直そうかな。もう一杯だけ。寝返りを打つと先ほどと違う方の耳にもこおろぎの声が入ってきた。◆豆腐が冷蔵庫にあったはず。鰹をふりかけてもいいし少し温めて醤油をかけても美味い。居間からならこおろぎの声もよく聞こえるはず。◆さっきから同じ所ばかり読んでいるのは虫の声のがやかましいから。やっぱり飲もうかな。いやこのまま薄手の夏布団にくるまっていたい気もする。どうしようか。◆地蔵盆のときにもらったするめが残っていたように思う。それなら日本酒。「ダム建設と経済効果」の本はもうそろそろ飽きてきた。◆少し大きな風に揺れたすだれの向こうにのぼってきた月が誘ってくる。うさぎがひっくり返って誘ってる。寝酒もいいなあ。よしっ。◆厚めに切った板わさを肴にこうして僕の月見酒がはじまる。虫の声はもう聞こえないのに。