達富洋二の綴ったもの
☑ T’s map
2022 05 31 T’s map vol.188
☑ 思考行為動詞
2022 06 04 T’s map
☑ 「単元計画」はだれのものか
2022 05 14 【番の会06】「単元計画」はだれのものか
☑ 学習課題から《私の問い》を立てる単元づくりのための教師の仕事
2022 03 10 【佐賀大国語教育06】学習課題から《私の問い》を立てる単元づくりのための教師の仕事
達富洋二の小さなつぶやき
昭和の終わりから平成の半ばまでの小学校教員時代、私は、図画工作科とりわけ「造形遊び」にも興味をもって学んだ。国語科を一つの教科として切り離して考えるのではなく、壁に貼ってある時間割をあくまでも教室での子どもの学習の集合として見たかったからである。美術を選んだのは、教育実習での指導教員が「造形遊び」を専門とされていた先生(のちの文部省教科調査官および視学官である板良敷敏先生)であったことと、新任教員として赴任した長崎県五島列島が自然豊かな地であり、「造形遊び」の材料集めに事欠かなかったことがきっかけである。
小学校教員として全教科の指導ができるのは当然であるが、校種に関係なく教師は、授業において「教科の資質や能力」と「学ぶことの自律性」とを一緒に育成することが必要である。「教科の固有性」を学ぶためにも、「(全教科を)学ぶことに共通する自律性」が不可欠だからである。
子どもは「教科の資質や能力」と「学ぶことの自律性」を別々の機会ではなく単元の中で習得していく。「学ぶことの自律性」の育成は単元びらき(単元の第一時)が重要である。「学ぶことの自律性」は子どもが単元を自分ごととして主体化するときに必要であり、また主体化する経験を通して育つからである。子どもがどのようにして単元を自分ごととして主体化するか、つまり、子どもの学びがどのように立ち上がるかによってその後の学習は変わってくる。
「造形遊び」の単元づくりに学んだことで、教科を問わず、単元びらきは、「教師にとって子どもの学びの立ち上がりの文脈を調える時間である」ということが私の指導観の基盤になった。教師が子どもの学びの立ち上がりの文脈を調えることで子どもの学びは立ち上がり、子どもはその立ち上がりを単元を通した学習活動で変容させ、その過程で自身が立てた《私の問い》を解決しつつ学んでいく姿を目の当たりにしてきたからである。
一方で、国語科の指導観については心細さを覚えた。そのような姿を目にすることができなかったからである。当時(私や私の周辺だけかもしれないが)、国語科の単元びらきにおいて、その単元で学習することの価値や意味、計画や単元のつながりを子どもに語り、子どもの学びの立ち上がりの文脈を調えようとすることは少なかったように思う。「この単元を通してどのようなことをどのように学ぶのか」「どのようなことができるようになって、そのことが今後どのように役に立っていくのか」という説明を私はしていなかった。「何をもって単元の終わりとするのか」ということさえも子どもに示していなかった。
活動的な課題(言語活動)を設定したとしても、それは単元終盤に取って付けた「おまけ」のようなものであり、言語活動を通して学ぶというものではなかった。言語活動のモデルや学習課題などもなく、目標かスローガンか分からない曖昧な「めあて」的なものを黒板に書き、予定していた個別の発問をこなすだけの授業であった。
子どもは単元の全体像を知らないため、教師の指示や発問に依存しがちであった。子どもの活動はそれなりに主体的に見えることもあるが、実際は断片的な学習行為を能動的にこなしているだけであった。
「造形遊び」であれば、単元びらきにおいて、学習の全体像を知らせないことはあり得ない。「指導の意図性と行為の具体性」を明記した単元名(題材名)を提示することで全体像をとらえられるようにしていた。そして、そうすることでおのずと子どもの学びは立ち上がっていた。しかし、単元のゴールを知っているのは教師のみであることが多い国語科の単元びらきでは、安定した学びの立ち上がりは少なかったように思われる。
私は、国語科の単元びらきでも単元の全体像を子どもに示す方が学習は主体的なものになると考えるようになったが、教師の手の内を見せると子どもがわくわくした気持ちにならないという批判もあった。確かに教師の劇場型授業であればそうであろう。しかし、子どもを主体とした学習において、子どものわくわくする気持ちは「次の時間は何をするのか」や「先生はどんな質問をされるのか」ではなく、「言語活動を納得できるようにやり遂げるための解決策や計画をどうするか」や「自分は何ができるようになるのか」に向けられるべきであろう。教師が単元の全体像を示し、その単元でできるようになることや学ぶことの価値を説明することで、子どもは言語活動をやり遂げることに憧れ、それを実現させる見通しを立てていくと考えられる。
教科の知識の指導を一斉形式で行うためには教科ごとに方法が異なるという指導観の差異を教科の固有性として片付けるのではなく、子どもが主体となり、活動を通して自身の「学びの立ち上がり」を変容させ、汎用的な資質や能力を育成できるように指導したいという共通の指導観を我々は教科をまたいで共有するべきではないだろうか。すべての教科を学習し、それぞれの固有の内容を習得していく子どものためにも、教師は「学びの立ち上がり」の文脈を調えることで、汎用的な資質や能力と学ぶことの自律性の育成することが必要ではないだろうか。二十年ほど小学校や小中学校の教室で仕事をしてきたが、私の中にはこれらの問いが幾重にもそして往還して存在していた。
平成の後半から折々に九州各地の教室をたずねた。するとこのような問いは私ひとりの問いではなく、子どもの学ぶことの自律性を育成したいと考える誠実な教師たちの共通の問いであることが分かった。
そこで、「教師は学習者の学びの立ち上がりのために何をどのように調えることが必要か」という共通の問いを解決することを目的として本稿を纏めることとした。
自律的に学習を創造できる学び手を育てる単元学習
(ア)自ら問いをもちその解決を目指す学習課題の提示
(イ)協働しながら新たな価値を生み出す言語活動の提案
(ウ)主体的に判断して学び続ける学習のてびきの提供
創造的な国語教室のための教師の問い
① 学習課題(指導事項・思考操作・言語活動)が単元を通して役立つものとなっているか(主体的な学習の基盤となっているか)。
② 難易があからさまな学習課題になっていないか(優劣を超えた課題になっているか)。
③ Aフレーズの習得のための《私の問い》になっているか(子どもが忖度していないか)。
④ 《私の問い》と学習過程との関係を見ているか。
⑤ 単元を通して《私の問い》がつながっているか。
⑥ 学習材の特徴と言語活動の属性のふさわしさを吟味しているか。
⑦ 他者との共有,他者がいる価値,他者への配慮のある集団の学習になっているか(集団のサイズの特性を考えているか)。
⑧ グループコミュニケーション力の定着を日常化しているか。
⑨ コンパクトに書くことを継続し評価を蓄積しているか。
⑩ 学習の見通し(問いの一覧)とふりかえりをどのような目で読んでいるか。
⑪ 発問をおろそかにしていないか(課題解決につながる発問になっているか)。
⑫ 語彙指導計画を立てて語彙学習を位置づけているか。
⑬ 読書生活指導を基盤にした国語教室になっているか。
⑭ ノート指導を計画的に行っているか。
⑮ 学習の記録や学びを共有できるものを作成しているか。