たつログ

ちょっとしたこと,綴っておこう。モレスキンのノートとモンブランの万年筆,時々たつログ。

えとせとら

春分の日があたたかい

春分の日の午後。

僕は庭で将吾とチェーンソーで薪しごとをしていた。新しいチェーンを取り出したとき、空袋が風に吹かれた。すすすっとはるさんが袋を追いかけ、ポケットに入れた。何もなかったかのように。

僕はいいなあ、この身のこなし。と気持ちよくなった。

将吾のチェーンソーの扱いも少し慣れてきたようだ。エンジンに踊らさせていたのが、操れるようになってきた。はるさんはにこにこ見ている。ずっと見ていたいみたいに。

僕はいいなあ、この時間。と心地よくなった。

大きなお鍋のおでんが温まり、薪でナンとスペアリブを焼き始めたとき、祥平たちがスイーツを持ってやってきた。実は祥平とは昨夜も一緒だった。長崎おでんで平戸のお酒の次の日は、たつとみおでんで黒ラベル。

子どもは泣いても笑ってよだれを垂らしていてもあたたかい。口もとを拭う母ちゃんもあったかい。

来れば帰るもの。がらんとなった駐車場が妙にだだっ広く感じる。

だったらもうひとがんばり。

将吾とおそろいのオレンジのチェーンソーで日が暮れるまで切り続ける。

父を想う日

きょう3月19日は、父を想う日。

親父は筆まめな人だった。親父が紙に綴っている姿を覚えている。鉛筆が紙をひっかく音と万年筆の音とが違うことも親父の背中で知った。

だから僕はモレスキンとモンブランが近くにないと落ち着かない。

それを「たつログ」に仕立て直す仕事をさぼっている、この1ヶ月。1月末から心乱し、2月に風邪をこじらせ、3月は祈り続けていた。

さてと、ぼちぼち、モレスキンのページをさかのぼってみるか。

大学生が研究するということ

きょうは大学の国語科卒業研究発表会だった。僕は大学生が研究する姿を頼もしく、うらやましく、そして美しく感じている。

学生の研究は屁理屈ではない。形式でもない。もちろん「やらされ仕事」でもない。だから粗いところがあり、こなれていない言葉があり、ときどき抜け落ちている部分がある。

それがいい。自分のことは棚に上げて他者に言いたい放題の大人の屁理屈とはちがう。

学生たちの発表は僕の身体に心地よい。

そのあとの読書会(という名の懇親会)はさらに心地よい。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

若いひずみのほうが美しい

思い出したことがある。

先日、ある研究会に参加したとき、その学校の教員が配布した資料について「これなら新採用の教員にも分かる」と言っていた。

日頃、二十歳前後の熱い若者と学んでいる僕にはこの言葉が独りよがりで陳腐な言葉にしか聞こえなかった。

大学では歴史的財産から最先端の知見まで総合的な学問にふれている。最先端の教育を学ぶ機会が多いのは大学生かもしれない。いや、大学生だからこそ今を知っている。だからといって、それだけで十分だなんて誰もが思っていない。大学生が渇いているのは生身の子どもの事実だ。大学生はもっともっと子どもを知りたがっている。子ども研究こそが教育実習であってほしい。

1年も2年も研究することがら遠ざかっていた教員が、平気な顔して話題に入ってくることが信じられない。研究ってもっと繊細なものであるはずだ。

大学生は輝いている。大学生は熱中している。大学生は成長している。大学生は分かっている。僕は誰よりも大学生を応援している。

若いひずみは古い常識よりはるかに美しい。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。僕はもう少しだけ若者を応援し続けます。

旅の風に吹かれて

人の話に耳を傾け、こんなことを聞きたいんじゃないかと思い巡らせて、できるだけわかりやすく言葉を選んでつなぎ合わせて届ける。これが僕の仕事。

旅の風に吹かれ、この4日間は新冠の宿に身をまかせていた。

宿の女将とも親しくなった。熱めの湯とのつき合いかたもわかってきた。枕のくせにも馴染んできたし、ここの台所の味噌汁には一味を入れると美味いことも見つけた。

旅とはこういうもんだ。

さてと、暖かくなってきた。少し長めの旅にでも出るか。

神さま、この旅にもいつくしみをありがとうございます。春を待つ仲間に会えました。

旅は新冠へ

さあ、新冠への旅のはじまり。春を待つ仲間に会いにいくよ。

新冠ファイナル!

おもひでぽろぽろ、色

京藤色、薄藤色、若紫に葵紫、桔梗紫に紅桔梗、花紫、本紫、藤鼠、梅紫、母の和箪笥からは紫の着物が溢れ出る。

京都紫野の地に嫁いだのも何かの縁。

僕はいま、教会のミサで司祭が紫色の祭服を着るとき、まずは母を祈る。

陽がのぼる前の空、一日の終わりの夕景の空、そのすきまの何処かに必ず漂う紫色の流れ。夜の帳が下りたあともすうっとたなびく大村湾の水面にも紫の波。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

おもひでぽろぽろ、匂い

小学生の頃、京都西陣にある僕の学校の参観日では、母親たちはほとんど和服だった。子どもながらに、自分の母ちゃんの着物に期待していた。帯の締め方、着物の模様、羽織の色もそうだけど、僕は、帯締めの組紐の色の組み合わせまで気になっていた。それに加えてもうひとつ自慢があった。

あっ、お母さん来はった。

国語の本を読んでいても計算をしていても指を規則的に上下させてアマリリスを吹いていてもわかった。

お母さんの匂いや。

母の匂いには品格があった。

僕が18の頃。「これは洋二の匂いやさかい大事にしいや」とくれた匂い袋。そのときの調合通りにはできないけれど、僕の紺のジャケットには今でも母の匂いが染み込んでいる。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

おもひでぽろぽろ、音

弟の葬儀のとき、母が僕の後ろに正座したのがわかった。目を覆って涙を拭いたのもわかった。立ち上がって白い花に手を添えたのも知っている。

母の音。それは衣擦れの音。

「かいこさんが鳴かはるんやで」と、緞子でも錦でも、母の帯からは衣擦れの音がしていた。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

おもひでぽろぽろ、味

しいたけ、小芋、茶碗蒸し。しいたけと小芋は12歳までに一生分を食べた。かぼちゃも切り干し大根もおからも、生まれ変わっても食べることはないだろう。いわゆる庶民の和食と訣別宣言をした僕なのに、好物を聞かれると、「しいたけと小芋」と口からするっと出てしまう。

京都の上七軒でも東京銀座でも金沢片町でも長崎思案橋でも、今の僕は「しいたけと小芋」。

そして、母の味と比べては「この店にはもう来ない」とこぼしてる。

母の味を再現できるのは僕と兄しかいない。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

おもひでぽろぽろ、光

縁側でえんどうをむいて豆ごはんの支度をしていた。さやの持ちかた、左手の薬指の添えかた、親指ではなく人さし指の傾けかた、お母さんの教えかたは上手だった。はじめての僕が夕飯のときにお父さんに自慢したくなるほどまでできるようにしてくれた。

それまで縁側に射していたお日さんがスイッチを切ったように弱くなったとき「洋二、お茶のもうか」と、ひざの上のさやを払って立ち上がるお母さん。

まあるいお盆に二つ清水焼の湯呑みと八ツ橋のかけらをのせ、お母さんがおだいどこから戻ってきたとき、またスイッチが入った。

ばあっと明るくて温たくなった縁側。

今でも、日差しが射すと、母がこっちに歩いて来そうな気がする。明るくて温たい陽射しの柱の中には母がいる。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

京都、北野の天神さん

京都には白梅町とか紅梅町という粋な町名がある。

北野の天神さんは、そんな界隈に凜と建っている。今頃は梅の香りがやさしく風にただよっているに違いない。

父は桜の人だった。酒飲みだったからか、ワンカップを片手に平野神社の桜の下がよく似合っていた。母は梅の人。紅梅には薄墨の小紋を、白梅には萌黄の紬を。「こうでないとあかんのんえ」と言いながら、本当にその通りに生きてきた。

僕はおかんが着物を着るのを手伝うのが好きだった。おまくを持っていったり、帯揚げを選んだり、帯締めに指を添えたり。

だから、紅梅の香りは母の着物の匂いと重なる。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

春を待つ手紙

そうそう、「春を待つ手紙」

人間だから求めてしまうけど
それこそ悲しみと知ってもいるけれど

「求める」ということは、「待つ」ことだと思っている。

「悲しみ」は忘れることがいちばん。忘れることを「待つ」のは思いのほか人間らしいと今さらながら味わっている。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

旅のたより

下手な文字だけど、はがきを書くことが好きだ。

旅に出ると、旅先から必ずはがきを送る。送るのは一枚と決めている。誰かれたくさんに旅の心を送るほど器用ではない。

封書ではなくはがきにするのは旅の香りも一緒に届けられそうだから。旅の天気もついていきそうだから。

前略、と書きはじめると「お袋さま」となるのはショーケンの影響。だけど、実際、旅先からのはがきをいちばんたくさん読んでくれたのはお袋だったにちがいない。さて、2月は北海道。しばれる寒さも届けられたらいいんだど。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

僕にはすてきないとこがいて

雅樹は僕と同い年の優しいいとこ。いろんなことを知っている頼もしい男。でっかいオートバイを操る力強さとみんなを嫌な思いにさせない繊細さをもち合わせた安心できる男。

百合ちゃんは僕の兄貴と同い年の美しいいとこ。全国ミス着物に選ばれたうるわしい女性。なんでもできるのにそんなことを決してひけらかさない永遠の姉さん。

尚美は男家系の僕にとってかわいい妹。ちょこちょこしていたガキの時代とは打って変わって、今は家族をしっかりと守る母ちゃん。だけど、まだまだ妹分は変わらない。

そんなすてきないとこたちとのひととき。歳を重ねた僕は自分のことを棚に上げてみんなの人生を楽しそうに眺めてる。

「洋ちゃん」なんて呼ばれる心地よさは京都でしか味わえない。きょうは何人に「洋ちゃん」って呼ばれただろう。そう、僕はかつて「洋ちゃん」だったし、今も「洋ちゃん」なんだ。

親父は「洋子」だと願っていたらしい。お袋は「洋二」を確信していたらしい。おかんの勝ち!

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

車を走らせて

4つ上の兄貴と僕が運転席と助手席。親父とお袋は後部座席に。母が生まれ育った伊勢まで、年に何度も車を走らせた。

両親が起きているときは岡本敦郎や藤山一郎、美空ひばりの歌を鳴らし、後ろから寝息が聞こえはじめると吉田拓郎さんの曲に変えるのがいつものことだった。

大学生になった頃から僕がハンドルを握ることが多くなり、兄貴は隣でビールを飲んでいた。後ろからお袋が、「洋二、拓郎さんのあの歌、かけなさい」と言うようになった。

僕たちは親父やお袋が拓郎さんを聞いてくれるのがうれしくていつもいつもその曲を鳴らした。

春を待つ手紙

♪旅する人には人生の文字 似合うけど
人生だからこそひとりになるんだね
ここでも春を待つ人々に逢えるでしょう
泣きたい気持ちで冬を越えてきたひと♪

兄貴との何気ない話はいつも「おかんは春を待つよりも春を連れてくる人やなあ」となる。

僕たち放蕩息子はまだまだ冬を越えられそうにない。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

母親<おかん

日本語語彙論。「母親をどう呼ぶか」。

僕は他者には「お袋」。親しい連中には「おかん」、本人には「おかん」か「お母さん」。「ママ」と呼んだことはない。

漫画の登場人物はどう呼んでるか。場面によってどう言い換えているか。現在過去未来で区別があるか。学生の研究はなかなか興味深い。

「ママ」と呼んだことがない僕にはおかんに「ママ」のイメージはない。「ママ」と呼びたかったことがないわけではないけれど、「ママ」と呼ぶには「洋ちゃん」と呼ばれなきゃとおもっていたのだろう。「ママ」と呼ぶことはなかった。

おかんは「洋二」としか呼んでくれなかった。

ただ、おかんが呼ぶ「洋二」の声の表情の違いは熟知していた。千差万別。僕は、「洋二」の「よ」で、「よ」が音になる前のおかんの息を吸うわずかな空気の揺れで今のおかんの心情を言い当てる自信があった。やわらかい「よ」と悲しんでいる「よ」、がんばれの「よ」もあれば、あかんの「よ」もあった。おかんの「よ」は生きていた。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。放蕩息子の洋二です。

ラジオを鳴らしながら

きょうは島原。橘湾を右手に、

雲仙の山の背を左手に

軽快に走る僕の小さなトラックのAMラジオからは「哀愁のカサブランカ」。

昨夜のほとばしる情熱と今朝の透き通る青に僕の心は「僕は何を望まれているのだろう」と問いかけている。

幸せとはこういう日常の振り返りの中で確かな言葉になる。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

薪がつくる炎の曲線が昼間の問いを解決にいざなってくれる。

とんとん拍子

風は南から♪

笑うと若返る。しかめっつらは身体に悪い。人の悪口のお酒はひとつも美味しくないけれど、明日への夢を肴にすれば時を忘れる。

美魔女か悪女か判断できないけれど、風は南から吹きはじめた。

僕の旅ぐらしはますます楽しくなること間違いなし!

文化の冬眠

フランクルが「文化の冬眠」と書いたのを覚えている。

僕は自分ひとりが冬眠するのは嫌じゃないけど、仲間との時間が無計画や無責任、本気でないために冬眠になってしまうことは大嫌いだ。残念とかもったいないとかで片付けられない。

だから、きょうは旅に出ることにした。研究は冬眠しちゃいけない。成長は冬眠させちゃいけない。

たつゼミ

2003年度、彩さんが第1期のゼミ長。

以来、2024年度の大輝さんまで脈々とつながっているたつゼミ。今夜は本年度の卒業研究の完成の打ち上げ読書会。

語った、笑った、飲んだ。

たこ焼きからアイスクリーム(僕は行かなかったけど)まで大いに盛り上がった。

きっと僕はこんなふうに学び手と楽しむのが好きなんだなあとしみじみしてる。

ありがとう。葉津季さん、陸一さん、百合夏さん、美優さん、大輔さん、至優さん、大輝さん。

最後の担任はとっても心おだやかです。

手だすけ

手びきって、結局は手だすけのことなんじゃないかと思いつつある。

ただ、手だすけと言っちゃうと、なんだか「先生が助けてやったんだぞお」のようないばりんぼうになってしまいそうな危うさがあるかもしれない。子どもにも「助けて」もらわないとできない、というような不安は感じさせたくない。

助けるよりも手を引くというのは謙虚さと優しさとそこに小さな私の責任感のようなものを感じる。

だけど、「引く」だけで「助け」になっていなければ残念なこと。

いつもいつのときでも、神さまに手びきしてもらって手だすけしてもらっている僕が誰かにしてあげるなんて、まだまだ早すぎるのかもしれない。

寝息

寝息っていい。一人じゃないことを確かめられる。

小さかった頃、隣に寝ている兄の寝息や隣の部屋の父母の寝息を聞き分けるのが得意だった。

寝そびれてしまったときは家族の寝息を聞きながら、ひとり、寝つけなかった悲しさと怖さに余計に目が冴えたものだった。

寝息っていい。寝息はふるさとのリズム。寝息は僕の呼吸。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

長崎で学びましょう

3月、長崎の集いを開催します。

2月22日の天草の集いに続いて学びませんか。

ぜひ、長崎にもお出かけください。僕のかけがえのない存在である森山卓郎さんが来てくださいます!

湯島に育つ

兄弟船はきょうも湯島に向かう。

「兄さん、まずは大根を抜きに行きましょう!」

島のてっぺんに広がる大根畑。

兄弟、赤城ィに抜き方を習って、孤軍奮闘。

3kg超えの大物。

子どもみたいにはしゃいでる僕の向こうで兄弟が大根葉で湯島の土を落としてきれいにしてくれている。

なぜ大きくなるのか、なぜ美味いのか、謎の多い湯島大根を3本抱えて小学校へ。

歓待。なんて自分で言うのは変だけど、待ってくれていたなんていうのはもっと変だけど、帰って来たって感じ。

その後の校内研究会。1年生の単元づくり。熱い。

「国語ふつうになりました。」

これは、湯島小の仲間と僕とのひみつのことば。「ふつう」って、美しい。「ふつう」って強い。「ふつう」ってかっこいい。

帰りも兄弟船。

港に着いたら船長が缶コーヒーをごちそうしてくれた。

「また来ます!」

さて、帰り道はお決まりの雲仙の温泉場。

なにもかもが楽しくてうれしくて魅力的。

その中でもいちばんが「国語ふつう!」

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。ふつうこそすべてをつくり出す恵みだと知りました。

大阪、堺といえば

肉桂餅に決まってるやん。

ほんま美味しい。

大きな声では言えへんけど、京都のおたべより美味しいし。みんなにも食べてほしいんやけど、堺にしか売ってへんさかい、食べたい人は諒君に頼んで送ってもらわなあかんよ。

ほんま、美味しいさかい。

塩レモンのピザ

薪ストーブの中にプレートを入れて280度。

ピザ生地を乗せたら2分と15秒。

きょうは、矢住レモンを塩漬けにしたものをトッピングして完成!

オリオンビールを添えて出来上がり。

美味しくできました。

成人式

神さまのいつくしみに導かれてきょうがあります。

颯太、おめでとう。

神さま、ありがとうございます。

姫、ようこそ!

今年も十二単の姫がやってきた。

金子果樹園のこの姫、とってもかわいくて美味しい。

今年は、ゼミ生にも友だちにも神父さまにもお裾分け。僕はぎゅっと絞って焼酎と一緒に楽しんだ。

ほんとに美味しい姫。

鳥栖、維新

一夜明けて、鳥栖駅は真っ白。のぼるお日さまに元気をもらう。

昨日の僕の話もこの白い雪に包まれて冷凍保存。

きょうからはまた新しい鳥栖に役立つように勉強していきたいと思っている。役立つって、とってもうれしいこと。

もちろん、鳥栖の朝ごはんはこれしかない。

神さまきょうもいつくしみをありがとうございます。

今さら、「夏は来ぬ」事件

先日、大学の教授会のあと、研究室まで帰る途中で同僚に呼び止められた。

「先生、こんど鳥栖で大きな講演会をされるんでしょ」
「ええ、よくご存知ですね、そんなこと」
「図書館とかにポスターがたくさん貼ってありますよ」

そんな馬鹿なと思っていたけれど、当日、会場に着いて驚いた。本当にポスターが並んでいる。

おかげで、それを見たたくさんの一般の市民も集まってくれた。

僕が伝えたいこと。それは「ことばが人をつくる」ということ。

校歌の言葉の意味をよく知らない子どもは、想像するしかない。

「世界に呼ばん」が「世界に4番目の」になってもいいじゃないか。
「緑なす」は「みどりいろのなすび」と想像するなんてたくましいじゃないか。

僕だって「行き交う人になぜ亀を伏せながら」って思っていたし、
せがれは「君を呼子へ 力にしてくよ 何度も」って歌っていた。

想像するから言葉はおもしろい。いろいろ問うからもっと楽しくなる。

子どもの頃から「浜辺の歌」を歌っていたいたら「あした」の意味が分からないなんてことはない。「ゆうべ」と対句になっているんだから子どもにも簡単にわかる。

だけど、さだまさしさんの「精霊流し」の「あさぎ色」は僕の知っているあさぎ色ではなかった。浅葱色のほかに浅黄色があるなんて知らなかった。

そして、僕とっての「夏は来ぬ」事件はもっと重大なことだった。

京ことばでは、「来ない」ことは「きいひん」。だから「来ぬ」は「こぬ」ではなく「きぬ」って読んでしまう。そうなると、「来ぬ」は「こぬ」か「きぬ」ではなく、「来ぬ」は「きぬ」だけ。打消も完了も「きぬ」。だから当然、「夏は来ぬ」は「夏は来なかった」しかない。

だけど、この唱歌。歌詞のどこを見ても「夏、来てるやん」となってしまう。

中学校の国語の時間に「来ぬ」を詳しく教えてもらったとき、僕はこの幼少期の「古文助動詞」にもてあそばれたような経験を「夏は来ぬ」事件と名付けた。

だから、「世界に呼ばん」を「世界に4番目の」と想像する子どもって、とってもすてきに感じる。

こんな話を聞いてくださった鳥栖市民のかた、ありがとうございました。

高校生の頃、僕は古文の大好きな理系少年だった。

なぜ、古文が好きだったか。どうして、日本語にわくわくしていたのか。

それは、唱歌や歌謡曲を母の背中で聞いていたから、父が教えてくれたから。いつもいつも歌っていたから。

谷村新司さんの「いい日旅立ち」は、言葉に学び、言葉で育つ僕たちの軌跡を見事に言い表している。

小田和正さんの「さよなら」のすてきな感じ方を紹介して講演を終えた。

佐賀でいちばん身近な町、鳥栖。夕食までのわずかな時間、ホテルの窓には白い雪。

明日はきっと積もるに違いない。真っ白な鳥栖に新たな恵みの日が来る。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

 

いい仕事とは

今年はじめの校内研究。

会がはずんだ。2025年。上手くいきそう。

唐津市立長松小学校。きょう、僕はこの学校に来て本当によかったと思う。

いい仕事とは、また会いたいと思えること。帰り道、振り返ってしまうこと。窓の外を見るとき、さっきの人の名前が唇にうかぶこと。

武田さん、田中さん、また来るけん。

ことしも旅ぐらし

「今年はどんな一年を生きるか?」

せがれが小さいときからお正月に言葉にすることが我が家の習慣だ。「どんな一年にするか?」ではなく、「どんな一年を生きるか?」が大事。

そんなことをお正月に語れるために、年末には「家族作文」を書いている。上のせがれが文字を書きはじめるようになってからだから、今年で23枚目の家族新聞ができあがったことになる。

さて、僕の一年、今年の僕。

やっぱり「旅ぐらし」がいちばん似合っていそう。

みなさんの町をたずねたときはどうか一献の杯を!

今年もいつもの鞄をさげて、風の吹くまま気の向くままの旅です。

干し草に新しい光を

親友、高尾晃さんからいただいた高尾さんの父ちゃんが作ってくださった「干し草」。

もう4年ほどになるのに、毎年、新しい光をあびて、冷たい風に深呼吸をしているおかげで、今でもふかふかで寝ごこちばつぐん!

今年も、たっぷりと光を浴びて深呼吸。

離れのロフトで干し草に包まれて眠るのは心のふるさとに帰るようだ。

主の平和

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

我が家のクリスマスツリーは1月11日まで主の降誕をお祝いしています。

早起きしてアップロード

今年はものぐさだった。「たつログ」未更新。

書いていなかったわけではない。机に向かわなかったわけでもない。ものぐさ。そうなってはいけない、と大晦日に早起きしてアップロードした。

お正月のすきま時間に読んでくれるかたがいるかも。

2024.12.29 真摯な研究とは
2024.12.28 年の瀬
2024.12.27 ひみつの出張
2024.12.22 人の中で
2024.12.20 入院
2024.12.19 ちょっと行ってくるけん
2024.12.14 指月会はどこまで続く?
2024.12.13 ひろの安定感
2024.12.09 学びが学びをつくる
2024.12.08 薪しごとの仲間
2024.12.03 朝霧
2024.12.02 大学生の学び
2024.11.30 大阪、ええとこや
2024.11.29 諒の成長
2024.11.26 小西教室、学びにあふれている
2024.11.22 学び続ける教師

ということで、よいお年をお迎えください。

大晦日は外食べ

鹿児島の妹から鶏の煮物の動画が届いた。見事なまでの色つや。香りまでが届きそう。

よしっ決めた!

明日は我が家で芋煮会をする!朝から薪をつくりながら芋煮会!

真摯な研究とは

僕の友人に國枝勇希という男がいる。前任の大学で知り合った男なんだけど、数年前に再会してからは2ヶ月に一度声をかけ合うようになった。國枝は、国語科、体育科、道徳の学習など、「学ぶ場」において《問い》を立てることを日常にしている。さりげなく「子どもは《問い》を立てて成長しています」という國枝に僕は何か憧れのようなものを感じる。

國枝は子どもと真正面に向き合う。
國枝は不器用なくらい子どもを信じ、子どもを受け止める。
その誠実な対峙の姿勢はきっと誰もが憧れる教師としての矜持なんだと思う。
僕には決して近づけない美しさがある。
不器用な國枝がまぶしく映るのはなぜだろう。

そんな國枝が綴ったものが教育誌に掲載された。


↑click(冒頭部分のみ)

冒頭、次の文が力強い。

・年間計画を立て実践することで子どもたちの「できる」を着実に積み重ねることができた。
・通常の学級、育成学級(特別支援学級)、総合支援学校(特別支援学校)に関係なく、自ら問いを立て解決する力、その考えを周囲に発信する力、相手の言葉から感じたことを発信する力は、すべての子どもたちにとって将来の生き生きと自立した生活を送るためにはなくてはならない力である。

「達富先生、育成学級の子どもが《問い》を立てて学ぶようになって本当によかったです。」の國枝からの言葉を僕はたからものにしている。國枝から学び、國枝学級の子どもに学び、竹の里小学校と一緒に成長したこの数年間、僕は本当に充実していた。

特別支援教育研究、2025年1月号(通巻809号)、東洋館出版社、ぜひ、手元に置いて何度も味わってほしい。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。國枝の仕事にふれさせてくださってありがとうございます。

年の瀬

やりたい仕事はあるんだけど、それらに蓋をしてきょうからは冬休みに夢中になるつもり。

晴れたら薪づくり、海あそび、車洗い、土いじり。

雨のしずくを聞くときは、本棚の入れ替え、文房具の手入れ、撮った写真の選別、アップできていないたつログの追加。

雪が落ちてきたら、跳ねるようにスタジャン来て散歩、タープの下で焚き火ビール、八代亜紀を聞きながら雪見酒。

星が輝いたら、神さまに感謝。輝かなくても神さまに感謝。いつも感謝。

ひみつの出張

これで仕事納め。自宅に帰ってきた。

神さま、1年間丈夫な身体をありがとうございます。

人の中で

年の瀬、僕は長崎県上五島から熊本宇土、そして天草へと旅している。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産をなぞって移動しているようなこの旅は僕にとって意味深い。

根無し草の僕にこうして声をかけて待ってくれている友がいるなんて、88歳の母はいまだ信じていない。洋二は人に迷惑かけることはあっても好かれることはない。ずっとそうだった。

上五島、ここは僕にとってまちがいなく古里。

そして、三角から天草。仲間が暮らし集う特別な地。

お母さん、少しばかり愚息は成長させてもらったかもしれません。人の中で生きていることが今の僕です。

感謝のうちに、

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

2024年12月22日 | カテゴリー : 旅の途中 | 投稿者 : Paul.TATSUTOMI

入院

「寅ちゃん」が入院した。

持つところのひび割れが気になりはじめ、重たい荷物を入れるのを控えていた。ところどころ、くたびれてきたので思い切って入院させた。

軽トラに積んで作ってもらった匠に診てもらうと、1月末までの入院となった。

2月の北海道には間に合う。

僕はとっても悲しい気持ちで寅ちゃんをお店に置いてきた。しばしのことだけど、別れがつらい。

寅ちゃん、しっかりな!

神さま、寅ちゃんを守ってください。

指月会はどこまで続く?

上等な会議室で開催することにも慣れてきた指月会。

子どもを主語にした語りに時が経つのを忘れる。

何時間、経ったっけ。

そろそろお腹すいてきた。

ということで、

かけがえのない学びの仲間、指月会。

僕が待っている仲間が日本中にいてくれる限り、僕はこの鞄を下げて旅を続けることを約束する。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

ひろの安定感

ここのところ堺に縁がある。きょうもひとあし伸ばしてみることにした。

まずは腹ごしらえ。学生の頃からよく来た店。

ピクルスは大盛りで。

さて授業。単元学習というほど大げさにとらえなくてもいい。単純に言語活動を通した学びと言えばいい。子どもが見通しをもち、子どもが学びに向かう。子どもが互いにかかわりあって学び続ける。それだけだ。

教師の指示がなければ何も動けない子どもにしてはいけない。

見通しをもち、ゴールを目指して学び続ける子ども。互いにつながり合って学ぶ子どもって、なぜこんなに輝いているんだろう。

たつゼミ3期生のひろの授業。見事な安定感がある。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

学びが学びをつくる

大学生はとまらない。大学生は自分を安く見積もらない。大学生は学びを連続させる。

大学生の真摯な学びに心打たれない者はいない。この大学生たち、きっときっと真摯な教師になるにちがいない。

僕は、どこまでもいつもでも応援してる。

きょうもキャンパスには灯りがともる。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

薪しごとの仲間

きょうは小川夫妻が家に来てくれた。

さっそく軽トラで近くの雑木林へ。

軽快な若い二人のがんばりのおかげで300㎏くらいの薪ができあがったところで、家の中で長崎おでんの会。

またおいで。いつでも待っています。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

朝霧

町が霧の中にある。

霧の中に暮らす朝。それもいい。

大学生の学び

大学生は自分からやる。大学生は見事にやってのける。大学生は学び続ける。

僕は、大学生の大いなる力を知っている。知っているから信じてる。信じているからもっと成長してほしいと願ってしまう。

そんな思いを添えて、きょうは降誕節の点灯式。

ふるえる学びのあとの静かな祈りに心が呼吸をする。空にはISS。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

大阪、ええとこや

大阪の朝はどことなくあたたかい。

勉強もあたたかい。

そして、

大阪の夜、やっぱりあたたかい。

諒の成長

きょうは久しぶりのタイカレー。

いつ来てもここのタイカレーは逸品。ひとりでカレーを平らげるのは至福の時。

そして、電車を乗り継いで、やってきた。

「たつゼミ」6期生の冨士松諒の教室にやってきた。もちろん、「諒のともだち」という立場だ。

教師が子どもの声を聞くというあたりまえで日常的な行為。ただ、これをさりげなくできる教師は多くない。

諒、腕を上げたな。

2007年10月1日、3校時。「世界一美しいぼくの村」を読む単元の授業を見せてもらったことを覚えている。

諒が「まちがってもいいから、線をひいてごらん」と指示、そのとき、小さな脇からの声、ほんとうに小さな声。

「じゃあ、適当にひいとこ」

すかさず諒、「適当はあかん、考えて間違うのはかまへんけど」

これが教育実習生の語りなんだと、僕は黒いノートにメモしたのを覚えている。そのノートを17年ぶりに開いてみた。そこにはこんなことを綴っていた。

「教育実習の質的研究」をつくる。1.教育実習前のゼミ、2.教育実習中のライフヒストリー、3.教育実習記録、4.授業研究ゼミ、4.教育実習の総括。ここに達富も所見を添える。

諒の授業を見て、教育実習生の「可能性」以上に、教育実習生の授業の「尊さ」を感じたからこそのメモである。

その諒がいまやこのような教室を創造している。

夜はもちろん。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。響く教室に連れてきてくださりありがとうございます。

小西教室、学びにあふれている

きょうは学びの仲間、小西友佳さんの教室をお邪魔した。授業がはじまる前に、「教えて達富先生」の時間をつくってくださり、生徒からは、古典から文法、僕の若い頃のことまでたくさんの質問。大いに盛り上がった。

さあ、いよいよ「小西教室」。圧巻。

穏やかな学びの流れに隙がない。降るような教師の声が生徒の学びに染みこんでいくのが分かる。そして、その生徒が欲している言葉が生徒の中で一つの流れをつくり、身体の中の思考に辿り着いている。

圧巻。

夜は、馴染みの店でおでんで一献の盃。鹿児島の仲間も駆けつけてくれて和やかなひとときになった。

小西さん、ありがとう。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

学び続ける教師

熊本、天草、その西のはずれの苓北町。ここに日本でもっとも子どもの成長を信じている学校のひとつがある。僕はそう確信している。

本気で成長しようとする教師が教室に居ることが、子どもにとっていちばんの学習環境である。僕はそれを疑わない。

本気の教え手と本気の学び手。両者が対峙するとどうなるか。

そこには一人一人の学びが立ち上がる。僕はきょう、それを目の当たりにして、これまで教室の声を信じてきたことを誇りにし、それが間違っていなかったことに感激した。

《私の問い》。これは一人一人の問いである。僕が、「問い・問い・問い」と言い続けてもう何年になるだろう。論文に書きはじめて10年あまり、実践をはじめたのは20年以上も前だ。

「子どもに問いが立てられるはずがない。時間の無駄だ。教師の仕事を馬鹿にしている。」鼻で笑われたこともある。
「教室で個々人が自分の問いを解決するんだったら学校に来る意味がない。」何度も揶揄された。
「集団で解決するから成長し、互いに伸びるんだ。」幾度も説得された。
「こんなことをしていて子どもが幸せになるはずがない。成長しない。これは学びではない。」否定されることにはもう慣れた。
次に、どんなとがった言葉を言われるか、予想できるようになった。最近は「こんなことを言いたいんでしょ?」って、代弁してあげることもある。

子どもが問い続けることは無意味なことなのだろうか。---ちがう。

「子どもは問いを立てる。はじめは時間がかかるだけだ。子どもが問いを立てられるように教えるのが教師だ。《私の問い》の解決に向けて「今から」をデザインできるようになることが成長なんだ。」
「教師からの発問の正解をさがすことを否定はしない。ただ、教室の仲間の《問い》を馬鹿にせず、《問い》を立てた仲間を大事に思い、仲間の《問い》の解決につき合っていける教室だから、学校で学ぶ値打ちがあるし、学校が大好きになるんだ。」
「集団で解決することは大事なことだ。ただ、誰かと一緒でなければできないのではなく、一人でもできるようになることがその子どものいちばんの幸せなはずだ。一人でもできる。ただ、みんなとならもっとできる。年の違う人、いろいろな国の人、好きな人、好きじゃない人、誰とでも生きていくためには、まずは自分がしっかりと《私の問い》を立て、その問いを握りしめることだ。」
「学びとは、きのうとは違う自分を見つけ、新しい自分に誇りをもち、成長し続けようとすることである。」

「自分は何を望まれているか。自分は何ができるか。そのために自分は今、どうするか。」

子どもを馬鹿にしない。子どもを安く見積もらない。

それは、子どもの力を信じること。子どもの《問い》を大事にすること。だからこそ、子どもの「今」をしっかりと見つめ、ちゃんと言語化し、きちんと教えることである。

苓北町立志岐小学校。教師たちが輝いている。

僕が人前で話した回数も1000回を超えた。どれもがつまらない話ばかりだったかもしれない。取るに足らない時間だったかもしれない。

でも、きょうは違った気がする。きょうは、なんだかすっきり話せた気がする。きょう、僕は、志岐小の子どもに語った気がしている。志岐小の教師たちに語ったに違いない。志岐小に集まった100人を超える「成長したがっている教師たち」が僕に語らせてくれたのは間違いない。

もう、これでいい。

もうこれで十分。全部、語り尽くした。もう、これでいい。おしまい。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。ありがとうございます。

toi toi toi !

僕には「問い続ける」仲間がいる。

教科書改訂

きょうは鳥栖の教科「日本語」の教科書改訂委員会。いちおう、委員長。だけど、僕でいいんだろうか。

帰ろう

きょうは満月。暮れなずむ新冠の丘に月が輝いている。久しぶりの北の大地。帰ってきた。

まずはサッポロクラシックで「ただいま」の乾杯。といってもこれは宿のサービス。

本格的な腹ごしらえは北海道ならではのおもてなし。馴染みの店、居酒屋「徳々亭」。

飛行機が飛ぶまでのわずかな時間に居眠りをする癖は直らないし、その時間にサトシの声を聞くのもいつものことだけど、きょうはそこに「帰ろう」のメロディーが重なる。

「与えられるものこそ 与えられたもの」

僕はこの地の仲間に多くのものを与えられていることを忘れちゃいけないと思っている。ずっと。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

焚きぞめ

11月10日。決して火が欲しくなるほど寒いわけじゃないけど、毎年恒例の焚きぞめ。

春に徹底的に掃除をしたから本格的な冬の前に点検。耐火レンガも取り外して組み直したのでそのすき間も確かめなきゃ。

ということで、完ぺき!

我が家の月海(柴犬)はいつもの指定席に陣取っている。星海は炎よりも潮風が好きなようで外でくつろいでいる。

さあ、日曜日の夕方。恵みの一週間になりますよう。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

しずかにお祝い

リンゴのサラダ

エスカルゴ

ズワイガニのスパゲッティ

長崎魚介のパエリア

静かな静かなありがとうに舌鼓。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

かなり本気で

鳥栖の朝焼け

きょうを祝福してくれている。

だからこそ、きょうの60分間はかなり本気だった。「教師の都合をやめよう」を伝えたかったから。

「教師の都合」を、と言う先生ほど自分の都合で授業をしている。それはもはや「授業」とは言えない。

時間配分ひとつ見ても教師の都合だ。導入8分間は何を根拠にして決められたのだろうか。先生が導入したつもりでも、子どもの学びが立ち上がらなければそれは空振りでしかない。なのに、先生は「では、」を繰り返し、どんどんと流す。

まさに「流す」である。

子どもの学習に流れを作ることは大事なことである。だけど、子どもの学びの機会を流してはいけない。

めあても同様。教師の都合による教師のためのめあては子どもの学びに役立つことはない。キャッチフレーズはめあてではない。問題もめあてではない。キーワードも目次的項目ももってのほか。

まさに「形骸化」である。「書いただけ」にしか見えない。

学級に示すめあてとは、そのめあてを自分のこととしてとらえることができ、そこから《私の問い》を立てることができるものでなければならない。めあては、黒板に書いておくだけの「教えましたよ」というアリバイ的板書ではない。

そして、子どもの興味・関心。子どもの内側に自然にできた興味や関心だけでは授業にならない。思考力、判断力、表現力等をはたらかせるための興味や関心は教師が作り、育てなきゃ学びは動き出さない。

「子どもの興味・関心に合わせるのが難しくって」なんて、何の言い訳にもなりはしない。先生の白旗宣言ほどみっともないものはない。

まさに「教えていない」事実である。

だからこそ、「一緒にやりましょう、鳥栖の子どもの力を育てましょう。生涯、学び続けるいのちのために。」の熱いメッセージを残してきた。かなり本気で。

教育長の確かで熱いメッセージも

教員の楽しく熱い指導も

なにより、生徒の手応えのある熱い学びも

全部、toi toi toi、問い・問い・問い!ここに「教師の都合」など、ひとつもない。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

本当に楽しかった。

さあ、もうすぐクリスマス!

もったいないことせんときよし

子どもの《私の問い》が明後日のほうに行きそうなときの教師のことば。

「そんなもったいないことせんときよし。」

今の《問い》の値打ちに気付けない子どもには、《あなたの問い》のよさを言語化して教えることが大事。

みんなを幸せにするおまじないのことば。

toi toi toi !

授業する教師もtoi toi toi

授業に学ぶ教師もtoi toi toi

みんなが育つ、おまじないの言葉。

toi toi toi !

水曜日の午後

時間がゆっくりと流れている水曜日。

授業を終え、ゼミを楽しみ、お昼を抜いて読書。研究室で小説を読むなんて、何年ぶりだろう。

このあとの教授会。この本をしのばせて席に着くことにしようっと。

さてと、

しびれた。

これほどまでドラマチックな展開だとは想像だにしていなかった。

こんな夜は、友から続々と届く「おめでとうLINE」を片手にバーボン。

ほんとうにステキなゲームをありがとう。YOKOHAMA BAYSTARS !

かつて、野球小僧であったことがこんなにうれしいなんて。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

2024年11月3日 | カテゴリー : 野球小僧 | 投稿者 : Paul.TATSUTOMI

文化の日に「たつログ」更新!

久しぶり、本当に2年か3年ぶりに6時まで床にいた。おかげできょうは身体が軽い。

朝の散歩も足取り軽やか。

きょうは、これまで2ヶ月ほどたまっていた「たつログ」を一気に公開、更新!

さあ、これからYOKOHAMA BAYSTARS!

勝ち切る、ってかっこいい

テレビの前にビールを並べて大貫(将吾)の立ち上がりから熱くなろうと思っていたのに、

しかたがない、

明日、行くか。

島で育つ教師たち

きょうは港を出る前に馴染みの湯に寄って来た。僕の場所は「二十三」か「十八」。さっぱりした気持ち、まだ濡れている髪、兄弟の待つ島からの船が見える。

「兄弟、また世話になるよ!」

きょうは前回の授業を含め、この単元まるごとのリフレクション。

もちろん、その前にはすべての教室に学べる贅沢な時間がたっぷりある。

給食も美味しい!きょうはハローウィン!

2時間の研修時間。短時間ではないのに短い。濃い。深い。そして何より、前回までときょうがつながっている。僕たちには「共通の言語」、「共有している思考」がある。これは何よりもの誇りだ。

校長先生の話も粋だ。毎回、墨書のてびきを準備される校長先生の組み立ては僕たちをさらにぎゅっと一つにしてくれる。

なにもかもに「つながり」がある、この島。

さあ、帰りの船の時間だ。兄弟が僕の鞄を抱えて送ってくれるのもいつものこと。

「じゃあ、兄さん、また。」
「兄弟、ありがと。」

帰りの海、イルカの群れに遭遇するおまけつき。有明のど真ん中に育つ教師たちにずっとずっと寄り添っていたい。

鹿児島出水の兄弟、熊本宇土の兄弟、屋久島安房の兄弟、長崎若松の兄弟、佐賀鹿島の兄弟、十勝帯広の兄弟、福岡仲津の兄弟、元気にしているかあ。会いたいぞ!

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

我らの星、横浜!

久しぶりのドーム。先発は東投手。

僕はちゃんと応援して、ベイスターズはきちんと野球をして、見応えのあるゲームだった。

久しぶりの息抜き。ふうと深呼吸したいけど、やっぱり息を吸い込むならハマスタで!

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

2024年10月29日 | カテゴリー : 野球小僧 | 投稿者 : Paul.TATSUTOMI

天草から宇土、そして天草

この贅沢な三日間。

やはり僕たちは教室の声をいちばんにしなければならないと思う。どんな本よりも、どんな講演よりも、どんなネット情報よりも、教室の声。

教師に学べない教師に成長はない。教室の事実を見ることができないなら、まずそこから鍛えなければならない。

それがあるからこそ、仲間内の勉強会が真剣な語り合いの場になり、共有による深まりが生まれる。僕はどんなえらいさんたちに名前を覚えてもらうよりも、教室に生きる教師たちの中にいたい。

なんて美しいんだろう。教師が成長する姿って。

仲間との夜が明けたら、早起きして次の町に向かおう。そこにも本気の教師たちがいる。ひとつ、ふたつ、みっつ。僕は教師たちの声に包まれる。

仲間との二日目の夜が明けたら、深呼吸して家に戻ろう。早くノートにこの贅沢を綴らなきゃもったいない。

家に戻って、すうっと息を吸い込んだら、天草の早生の小さなみかんの香りが僕に秋が来てますよ、って教えてくれた。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

束じゃない

小さな島の小さな学校。小学校はどの教室も子どもは一人。学習計画もめあても《私の学習計画》《私のめあて》である。方法もゴールもスピードも完全な「個別化」である。教師たちは「この子ども」から単元をつくり、「この子ども」を見て、「この子ども」をできるように教えている。まさに「子ども主語」の教室である。担任の姿はまぶしく輝いていた。

六年生は二人、五年生も二人、そんな小学校もあった。この教室には学習計画もめあても二つずつ。《私の学習計画とあなたの学習計画》《私のめあてとあなたのめあて》である。方法もゴールもスピードもちゃんと「個別化」されていた。教師たちは二人の子どもの「それぞれ」に合わせて単元をつくり、二人の子どもの「どちらも」ができるように教えている。ここにも「子ども主語」の教室があった。

では三人学級ならどうだろうか。五人学級なら、十七人学級なら。私たちは、何人になったら「子ども主語」をやめ、「教師の都合」に切り替えるのだろう。

大村は言う(『教えるということ』54ページ)。
要領のいい言い方で、こういうのがありますね。「中ぐらいの生徒を目当てに授業を進めればよい。」と……。どこかで聞きませんか。私はこわいことだと思います。だれのことでしょうか、「中ぐらいの生徒」というのは。試験をした結果平均点に近い人のことなら、これはたいへんなことだと思います。「中ぐらいの人を目当てにお話ししたらいいでしょう。」なんていうのは具体的にどういうことですか。なにを話すときにどういうふうに話すことをさすのかしらと私は思います。そんなことは空論だと思います。教えたことのない人の空論だろうと思います。または、子ども一人一人をみつめて話をしない人の空論だろうと思います。子どもは、常に一人一人を見るべきであって、それ以外は見るべきでない、束にして見るべきものでないと思います。

「教師の都合」は子どもを束にする。それは一人一人の「できるようになりたい」の声に耳と心を傾けないことである。

教室の人数が問題ではない。どの教室も総人数は一人一人の「いのち」の集まりなのである。教師の都合はその「いのち」をも束にする。そこに専門職としての実力などひとかけらもない。

第9回 長崎のひつじかい

ひつじかい、出島メッセで開催!いよいよ、出島メッセ!

まちがいなく質の高い研究会に育っている。ここに集う教師たちはみんな本気だ。

単元まるごとを語る教師。準備された資料も見事。中学校3年生「故郷」を読む単元がずっしりと伝わってくる。

長崎県全域から集まったひつじたち。僕はこのまま時間がいつまでも続けばいいのに、と、そればかり思っていた。

だから、そのあとの団らんも当然あたたかい。

ありがとう、ひつじたち。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

島育ちの教師たち

「よう、兄弟!」また世話をかけるよ。と港に着く。きょうは待ちに待った授業。思い巡らし、きょうを心待ちにしていた。

教えるということは、教師が伝えたいことをすべて伝えることではない。教えるということは、子どもが一人でもできるようにすること。

その事実が目の前に繰り広げられている。授業という時間には学ぶ時間が必要だ。教えるだけではいけない。学ぶ時間のために教える営みがある。

小学3年生。45分間、学び浸っている。

学んでいる子どもはたくましい。

教えている教師は頼もしい。

そして、学び合い、成長する教師は輝いている。

「兄弟、帰るけん。また来るけん。

島原半島に着いたあとは、ちょっと寄り道してひと息。

馴染みの温泉できょうの「島学び」を振り返るのは至福の時間だ。

土産に連れてきたカラスウリを眺めながらの晩酌が楽しみだ。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

11月22日は天草で!

天草、苓北町立志岐小学校。

11月22日、研究発表会。

とにかく丁寧な研究を進めている小学校。だれもが子どもを信じている教師たち。

11月22日。天草苓北に学ぶ価値、大いにあり!です。

稲木のある風景

ここに古民家があれば向井潤吉の油彩画が完成する。

僕はこの国の原風景に心洗われている。ふと足をとめて深呼吸。こんなぜいたくな瞬間。「日本晴れ」とはよく言ったものだ。

5月の鯉のぼりが泳ぐ五月晴れもいいが、稲木ひかる日本晴れもいい。

と、せがれからLINE。

横浜も秋晴れ。

快勝。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

僕の旅

せっかく休みをとっての日本海の旅。若い頃のようにやってみた。

ホテルでの贅沢な朝ごはんを我慢して、まずは富山駅。午前7時15分。

もちろん、立山そば。若い頃からの好物。

そして、ローカル線の下り線。

金沢駅、午前9時。

もちろん、白山そば。若い頃からの大好物。

夕飯まで、何も入らないけど、僕は幸せ。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

立山連峰を眺めて

年休をとって富山に来ている。風の吹くまま気の向くまま、ってほどじゃあないけれど、さわやかな旅。

昨夜の最終の新幹線で富山に入り、

駅前で泊をとり、

今朝は早くからあちこちを歩いてる。

季節は秋。風の盆には遅すぎる旅だけど僕は満足。

県庁と市役所によって、

職員食堂の日替わり定食。

商店街と酒場をめぐるとその土地のだいたいがわかる。

富山市。いい町だ。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

Toi,Toi,Toi

問い、問い、問い。

きょうの日がうまくいくように「おまじないの言葉」Toi,Toi,Toi!

きっと、きっとね、大丈夫。問い、問い、問い!

あれから2年

2022年9月23日、九州 教室の声に学ぶ会「長崎新幹線の集い」から2年。

あれからいろんなことがあって僕もふたつ年をとった。仲間にもそれぞれの2年間がありあの頃とはちがう道を歩んでいる。それらのすべてを応援し、きょうの日を懐かしく思っている。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

天草の名月を仲間と

きょうは天草。いつものように熱い時間をたのしみ、次回の熱さを心待ちにし、小学校を発つ。このあとは場所を変えてさらに研究会を続ける。

地元の人のみが走る道を教えてもらってショートカット。「風車の下を通りますから」の目印のとおり。風車を見上げながらのドライブ

こんなにでかいとは想像以上。これまで、自然に不釣り合いな景色を遠ざけていたけれど、ちょっとだけ距離が縮まった感じ。

さて、研究会。

勤務のあとの時間とは思えないほどの熱気に時間を忘れる。時を忘れる。それほどにのめりこんだ2時間。天草、いいぞ。

閉店時間前にすべりこんだ今夜のお店。

お造りの鮮度は間違いないけれど、この小鉢にはちょっと驚いた。

そういえば今夜は満月。それならここでも観月会。

こんなしゃれも心地いい。

と、LINEが届く。はるかケニアの満月。

長崎、PENNY LANEの満月。

世界はひとつ。被造物はみんなのたからもの。

仲間との時間もたからもの。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

大阪はきょうもまた

学んでいるのか、楽しんでいるのか、深め合っているのか、創り合っているのか。

もちろん、全部!

って、いうほど、大阪はきょうもまた熱い。

指月会、完熟期に入ってきた!

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

大阪はいつだって

堺市の小学校に来た。ひつじが迎えてくれる。僕のこと、知り尽くされている感じ。

研修会は僕の力量不足と思わぬ出来事に心乱してしまい、完全不完全燃焼。

取り戻すには、これしかない!

本領発揮。

完全完全燃焼。まだまだいける。

いい仲間ばかり。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

戻る旅に

朝から大きくて青い空

牧草地にからだを大にして寝っ転がる。大きな自然に小さな僕。それが心地いい。

こんな朝は遠回りして帰ろう。

腹ごしらえは、いつもの店。

透きとおる湖をすべるように吹く風が心地いい。このあたりの紫陽花はまだこれからだ。

さあ、帰ろう。

苫小牧発仙台行きフェリー。僕の若い頃の一コマと言えば、ここを外すわけにはいかない。ギターケースかかえて歩くことはもうないけれど、やっぱり、この港には「若い時代」がつまっている。

若い伊吹先生の授業に学び、若かった景色を思い起こし、若くない自分を少しだけ好きになった今回の旅。

風の吹くまま、気の向くまま。これが僕には似合っている。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

2024年9月7日 | カテゴリー : 旅の途中 | 投稿者 : Paul.TATSUTOMI

「教え」から「学び」へ

1年生の授業。子どもが学んでいる。「教え」から「学び」へ。まさに、教育観の転換が目の前に繰り広げられている。といって、教えていないわけではない。ちゃんと教えている。教えているからこそ「学び」が立ち上がる。

伊吹先生。やるなあ。それが僕の心からの祝福。

さあ、こんなに爽やかで手応えのある教室にいられたことに感謝して、今夜は乾杯!

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

新冠、僕はここにいる

確か、3日前は長崎県五島列島だったよな、と振り返りながら、苫小牧からの地元の路線バスに乗ること3時間。停留所の数は90ほど。右手の海の色が夕焼け色に変わる。

「診療所前」のバス停に降りる。「ずいぶん大勢の人がバスに乗るんだなあ」と鞄を提げて気づいた。バスの乗るお客じゃない。バスを降りる僕を待っていてくれたんだ。

「日本のどこかに、わたしを待っている人がいる」

そんなことはないんだけれど、こうして迎えてくれると「もしかして待ってくれていたのかも」なんて、うれしいやらはずかしいやら申し訳ないやら。

この町をたずねてもう3年以上になる。一方通行の思いでもいい。僕は、北の大地に確かに立っていることがうれしい。

さあ、明日は1年生の授業。心待ちにしていた1年生の授業。

宿に着くと、

襟裳岬に続く空に、子どもが飛ばしたしゃぼんだま。

北の大地。僕はただ被造物の一つであることを実感しながら、大きく息をした。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

若松島はいまも

朝から散歩。土井ノ浦まであしをのばす。

帰りは地元の軽トラに乗っけてもらう。途中、見つけた椿の実はポケットに。

朝日に浮かぶ船は「かっこいい」としか言いようがない。

朝ごはんはキビナゴのお茶漬け。「美味い」以外のことばは飾りすぎだ。美味いは美味いでいい。

いつまでも離れられない部屋。鞄をさげて「行ってきます」の時間。

さあ、出かける時間。

「女将、また来ます。」の声を残して出かける。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

 

上五島、若松島

佐世保港、朝10時。フェリーなみじ。

甲板から似首、丸尾を眺める。僕の住宅の近くの教会がひかっている。

昼はもちろん、五島うどん。慎とこっこの暮らしの味がいい。

そして、懐かしい声、懐かしい顔、懐かしい時間。

ここは僕が生きていた島。まちがいない。僕はここに居た。

夕食の魚が美味いのは、焼酎がたまらないのは、あたりまえ。ただ、味わい深くするのは昼間の3時間があったから。本気で語り合う時間が美しいのは、互いを敬愛しているから。時の経つのがはやいのは、互いを大事に感じているから。

上五島、若松。僕は「ただいま」のことばがこんなに似合う町をもっていることが誇らしい。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

教育実習のはじまりの日に贈る言葉

きょうから教育実習生として本物の教室で子どもに教え、本物の教室に学ぶみなさんへ。

悪天候のために教育実習の計画が変更され、本日、9月2日の月曜日から教育実習が始まることになりました。本庄小学校の主事をしている私からみなさんにお話ししたいことがあったのですが、先に決まっていた私の予定を調整することができず、きょうは、本庄小学校に向かうことができません。残念です。
私は、きょう、私がはじめて教員として働いた長崎県五島列島の小さな小学校を訪れ、授業づくりの研究を行います。8時ちょうどに佐世保港を出港の予定ですから、今まさに、港を出たところです。これから数時間かけて島に向かいます。どんどん離れていきますが、みなさんの教育実習が実りあるかけがえのない経験となるよう、祈っています。わたしも、夜には40歳を超えた教え子たちに会うのを楽しみしています。
さて、教育実習をはじめるにあたって4つの話をします。4つのキーワードはメモして残しておきましょう(メモの準備を待つ)。4つのキーワードとは、健康でいること、あらゆるものを見ること、識別すること、そして行動することです。

まず「健康でいること」です。自分のために健康であることはもちろんですが、担当している子どものため、学びの機会を作ってくださっている本庄小学校のみなさんのためにも健康でいることが大事です。体調管理の方法は、人それぞれでしょうから自分自身の方法で身体をととのえてください。
普段の大学生活とは異なる生活リズムになります。普段以上に、自分の身体との対話をすることが大事です。

健康であること。その上で大事なのが、「見ること」です。
私たちは、ともすれば、自分の専門としている教科や領域、分野などをものさしとして子どもを見てしまいがちです。そのことはみなさんの「よさ」であり、「あたたらしさ」でもありますから、とても尊いことです。
ただ、子どもはみなさんの「ものさし」に適うように学んでいる訳ではありません。みなさんが子どもの学びの特性に合った「ものさし」を用意することが大事です。具体的には、みなさんの「専門性というものさし」と、専門だけという傾きをもたない「まるごとというものさし」の二つを用意することです。
小学校の教師は、なんでも教えます。全部、教えます。まるごと教えます。自身の専門だけを教えるのではありません。子どもの一日の学びをまるごと教えるために、まるごと見ることが大事なのです。

次に「識別すること」です。識別することとは、「分かること」と言ってもいいでしょう。「分かる」ためには「分ける」ことです。弁別することです。弁別するということは何らかの秩序をもって名前をつける(ラベルを貼る)ということです。それほど意識して見ているわけではないことに名前をつける(ラベルを貼る)と、それが全体から切り離されて特別なことになります。うまくできたとき、うまくできたと感覚的に喜ぶだけではなく、「なぜうまくできたのか」と自分に問うのです。そして、できたわけに「名前をつける」のです。そう、ラベルを貼るのです。
国語の学習で、場面の様子を想像する学習のときに、子どもの考えをうまくつなぐことができた。なぜできたのだろうか。それは子どもが音読している様子を見ていたときに、「これってつながっている」という言葉をつぶやいたのを覚えていてそのことを紹介したからだ。それほど意識して見ていたわけではない教室の風景に「こどもの言葉をつなぐこと」というラベルを貼ることができたわけです。
このことは、一つ目の日常の「ものさし」で見つめることが「識別する」ことに役立つということを示しています。
だからこそ、「識別したこと」つまり「分かったこと」は言葉で書いて残しておきましょう。書かずにおいておくと、そのほとんどは忘れてしまいます。ととのった文字でなくてもかまいません。箇条書きでも単語だけでもかまいません。識別したことは書いて残すこと、これを続けましょう。そうすることで、考えることが連続します。「なぜか分からないけれどできた!」ということが、ものさしによる識別によって「こうすればできる。何度でもできる。いつでもできる!」というように言語化され、質の高い指導法が再現できるようになるのです。

おしまいは、「行動すること」やってみることです。そんなことを言うと、「わたしたちは毎日、いつも、何かをやっています」と思うでしょう。それはそうです。しかし、「大学で準備してきたことをその通りに行動すること」や「そのときにひらめいたことをとりあえず行動すること」と、「見て観察したことを識別して分かり、思考して弁別し、ラベルを貼って書いて残しておいたことを行動すること」は同じではありません。
さらに、「こうすればできる。何度でもできる。いつでもできる!」ことはしたくなるものです。そして、熱中できる教師は、「こうすればできる。何度でもできる。いつでもできる!」だけで終わらず、「もっと確実にするにはどうするか。もっと柔軟にできる方法はないか。」と問い続け、成長し、最終的には「子どもをできるようにすることができる!」という確かな指導力につないでいくのです。
教師が行動するとは、単に積極的であるということだけではありません。行動するとは、思慮深く、子どもを敬愛し、見通しを立て、責任をもって教えるということです。

さあ、今から、子どもたちはみなさんのことを「先生」と呼んでくれます。みなさんも自分のことを「先生はね」と言います。みなさんは間違いなく「先生」の立場なのです。松浦先生、福山先生、元気ですか。ちゃんと子どもをまるごと見ますか、識別しようとしますか、そして思慮深く、子どもを敬愛し、見通しを立て、責任をもって行動していきますか。
子どもを「できるようにする」教師として成長していきましょう。心から応援しています。みなさんの4週間がいつまでもいつまでも柔らかくてあたたかい布で包んでおきたくなるような大切な時間になりますように。本気でやりなさい。そして、きっと、夢を叶えましょう。

薪づくり

3年かけて薪になる。

薪づくり、教師の仕事に似ている。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

きっかけ題材

大阪に「大阪児童美術研究会」というかけがえのない研究会があった(現在もあるだろうが)。

僕はこの研究会に多くのことを学んだ。導いてくださった花篤實先生、岡田博先生、河村徳治先生、三澤正彦先生、素晴らしい師に鍛えられた。

その中に[きっかけ題材]というものがあった。

子どもは教師が設定する目標よりも造形だ。教師の語りはあくまでも造形の深まりの[きっかけ]に過ぎない。材料、行為、想。

「ええか、今から画用紙にお好み焼きつくるで。」

「まず、油ひかなあかんな。上手にひけるか。そんなちっちゃいので油ひいとったら煙でてまうで。」

「そやそや、次はメリケン粉とたまごやな。しもた、粉とたまご入れるもんわすれた。しょうない、パレットでやろか。どっちからや、水もいるやろ。」

「きょうは広島ふうやで。粉、たらしたら、キャベツや。そんなごっついキャベツ、食べにくいやろ。そやそや、ここは細い筆でキャベツの線かかなあかんな。次、どないすんねん。」

ここからは個人のスピード、ペース、経験、発想。つぎつぎと具材が乗っていく、そのたびに太さの異なる筆が選ばれる。にじみやぼかし、混色、重色、重ね描き、水加減、ひっかきなどの基本的な描画法がすべて画用紙の上で繰り広げられている。

「どや、美味しそうなんできたか。先生にも食わして。なんや、ソースかかってへんや。」

そのひと言で、迷っていた子どもが惜しみなく、これまでの見事なお好み焼きをソース色の絵の具で塗りつぶしていく。

「先生、かつお節と青のり、いるか?」

「あたりまえや、こてと割りばしもたのむで。」

割りばしの袋に書かれた「お好み焼き屋 仲田商店」が名札の代わりになる。

教室の後ろに貼られた黒い円形に緑の点々が書かれた画用紙は間違いなく子どもの大傑作品である。

[きっかけ]はお好み焼き、単元(題材)の目標は「描画道具の使い方になれること・基本的な描画方法に親しむこと」。間違いなく、完ぺきな図画工作の学び。熟考された、だけど、見事にちっちゃな[きっかけ]が大きな学びを創る。

大阪児童美術研究会の帰り道は赤ちょうちんで一杯。

「先生、[きっかけ題材]って、偉大ですね。可能性のかたまりですね。僕、きわめてみます!」

「達富、何、言うてんねん。あれば[ひっかけ題材]や。子どもをその気にさせたら、どんな学びでもできる。子どもは無限大や。子どもはできるんや。できひんのは教師ばっかりや。はよ飲みや。」

大阪人の[ひっかけ]が僕の「達富型 言語活動」の原点になっていることは間違いない。大阪人の[ひっかけ]が今の僕を創っている。だから、僕ももっともっと仲間に[ひっかけ]たい。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

見る、識別する、行動する。

「知る」「分かる」「やってみる」。

このことは、「知りたい」「分かりたい」「できるようになりたい」を導く基本的な動詞である。

その動詞の質を高めるなら「なに」「なぜ」「いかに」という問いが必要。

これは創造ではない。謙遜だ。

もちろん挑戦でもない。振り返りだ。

見ようとしてこなかった僕。分かったつもりでいた僕。やりっぱなしだったこれまで。

さあ今から、基本の動詞に浸ってみる。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

からだを流れるもの

やりたいことは変わる。できることも変わる。

一緒に歩んでいる人も、歩んできた人も、いつまでもずっと同じでないことを分からなきゃならないと思っている。僕もずいぶんと退化してきたを自覚しなきゃいけない。判断が鈍る。新しいことを思いつかない。ひらめきなどまったくなし。何をしているのかを忘れてしまう。残念なお話だ。

それなのに馬鹿な僕はずっと同じチームで野球ができると思ってしまう。

「2番、セカンド、達富くん、」のアナウンスは遠い昔のことなのに。

新たな兄弟の「1番、ショート」においていかれないようにもう少し勉強しなきゃ。

ワインを飲みながら恐竜と語る

信州のワインを飲もうと思ってテラスに出ると、1年前に連れてきた観葉植物が思いのほか大きく育っているのに気がついた。

「恐竜のミニチュアを置けば似合うだろうな」と思って青山から連れてきたけれど、この分だと思ったより大きなティラノサウルスを用意しなければならなくなりそう。

と、何か動いている。

根元にクワガタ。樹脂でできたティラノサウルスより、ずっとかっこいい。どうやら長野からついてきたようだ。

さあ、僕はようやく夏休み。指折り待ってた夏休み。

みなさん、夏休みおめでとう。ちびっ子たちは明日から学校かな。

校長会という仕事

きょうの仕事は、がらにもなく校長会研修会で話をすること。目の前にずらりと校長さん。知った顔も聞いたことのある名前もはじめましての方もいる。心地いい緊張感の中の70分。テーマトークを2回取り入れた講演会はまずまずの65点のできばえ。

学力の伸びなやみを子どものせいにしないなら授業を改善するしかない。いいかげんな改善ではなく、ちゃんと改善しましょう。そのためのキーワードは、、、

と僕のほうが熱くなってくる。

だけど、僕は知っている。僕を熱くさせたのは「知った顔の5人、聞いたことのある名前の4人、はじめましての3人」。

僕はこの12人の校長さんとビールを飲みたいと思った。本当に思った。65点って、悪くない。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

よくばってしまう天草

達富版、「説明文を読む」単元を紹介する。これがきょうの新企画。
達富版、「語り継ぐ主人公」で問いを立てる。これがきょうの演習。

講演前、すぐ近くに湯島が見える。兄弟の島だ!

兄弟の分も、と張り切る。

が、張り切ろうとする気持ちが空回りになる。どうも自分の言葉にならない。「伝えたい」が「伝わる」にならず、「伝わっただろうか」で終わってしまっている。

無念、120分で折り合いをつけられる内容でなかったことが僕の反省、それなのに真摯に聞いてくださったのが天草の熱意。

もっと上手に話すことができればよかったのにと反省ばかり。

ううん。まだまだ話し上手にはなれない。まだまだ僕はひとり上手。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

楽しいことしかしない

楽しい仲間と楽しいことしかしない、そんな「今日から」にする。

8月後半、天草2回、宇土、楽しみまくるぞ。
9月、上五島、北海道、京都、大阪、勢いづくぞ。
10月、富山、湯島、湯島、湯島、調子に乗るぞ。出島メッセもやるぞ。
11月、福岡、京都、北海道、天草、北海道、一気に行くぞ。
12月、京都、大阪、宇土、天草、楽しいことばかり。

長崎ベース、京都大阪ベース。

僕は楽しいことが大好きだ。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

教室の声に学ぶ

第16回 教室の声に学ぶ会は鹿児島。開催のためのすべてを引き受けてくれた壮には感謝しかない。

僕はこれから新幹線。道中、奴の顔を何度も思い浮かべながら、もらった時間を充実のものにする下ごしらえをするつもり。

きょうのテーマは、「説明文における言語活動」。「一枚に書く」ことの魅力を分かりやすく伝えたい。

さあ、もうすぐ仲間に会える!

8月15日

ここ数年、8月15日は永井隆の著作を読むことにしている。

「平和を」という強い信念を感じる文章に僕までが熱くなる。

8月。

気温以上にアツくならなければならないことがある。

天使たちの日曜日

我が家に天使が来た。Angel LiLi。

僕の大好きな3兄弟姉妹。そして母ちゃん。

なんでもないことを語り、ちょっとのことで笑い、大事なことにうなずく。

我が家に天使が来てくれた。

いつでもおいで。おじさん、ずっと待ってるから。

帰る前、2番目のAngelが寝っ転がる。

大の字って、なんとも豪快で、なんとも気持ちいい。

天使たちの日曜日。今度は羽を創って待ってるから。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。1番目のAngelに豊かな祝福を!

2024年8月14日 | カテゴリー : 恵みに満つ | 投稿者 : Paul.TATSUTOMI

夏の朝のにおい、鹿児島の集い

夏休み。

僕は小さな研究に明け暮れている。そのひとつに週末の「鹿児島の集い」の準備がある。

これが楽しくて手ごわくて、やっぱり楽しい。

みなさんにお土産のひとつでもと思い、明け暮れている。

昨晩から、本当に暮れて明けてしまった。それがやっぱり楽しい。

夏休みの徹夜は子どもの頃、カブトムシを採りにいったときみたい。夏の朝のにおいって、特別。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

たしかな道

なんともすっきりしない前期が終わった。すべての仕事を終え、きょうは久しぶりに薪づくりに汗を流した。

無になれる。木にたずね、どこを切ればいいか教えてもらう。チェーンソーを握り、木目の流れにまかせて力を移動する。無になる。この時間もひとつの黙想だ。

前期、僕は無になる時間がなかった。その時間をつくろうともしていなかった。傲慢で強引だった。つまらない日々に押しつぶされそうになる。

たしかな道とは何か。そんなことを考えながら、きょうの夕陽を眺めている。腕についた木くずを数えながら波に足をつけている。たしかな道なんてありはしない。万里の川を越えて探し続けるものだ。

神さまに向けて心を柔らかく開き、恵みの一日を迎える。それが僕にとっての道なはず。夏休み、僕はちょっと深呼吸しようと思っている。

2024年8月13日 | カテゴリー : 恵みに満つ | 投稿者 : Paul.TATSUTOMI

長崎のひつじかい

みんなが謙遜の中に学びを進めている。誰もが仲間を敬愛している。そして一人一人が受け身ではなく、自分がこの研究会を作ってからという誇りをもっている。

お客さんがいない、と言ったらいいのだろうか。人まかせではない本気さがある。

だから僕はこの研究会を大事にしたいと心から思っている。

第8回 長崎のひつじかい 例会。

きょうの4時間も僕たちは学び続けた。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

ことしも待っていたよ!

我が家で家族が遊ぶ。庭先の海で遊ぶ二人の女の子と父ちゃん。それを眺めている母ちゃん。それを見ている僕。

僕たちの役目は、ちびっ子をハンモックに揺らすことと、

美味しいものを食べさせること。

夏休みは外で食べなきゃ!

父ちゃんとも二人で語り合えたし、何よりあおあおとノンノと母ちゃんと笑い合えたのがよかった。一緒にミサに与れたのも幸せだった。

またおいで。いつでもおいで。いつまでもみっつめの故郷だから。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。