ちょっとしたことを綴っておこう。モレスキンのノートとモンブランの万年筆、時々たつログ。
たつログ
えとせとら
たいせつな宿
仲間と学ぶこと
大丈夫だいじょうぶの会 in 宇土
いろんなことを考えて、心配りもして、一方的な働きかけにならないようにして、そして、仲間たちが心あたたまるような時間がほしくなったとき、「大丈夫だいじょうぶの会 in 宇土」をやります。
仲間と離れていることがこんなにもどかしい。ほんたうのさいはひのために何ができるだろう。
神さま、僕の仲間たちにいつくしみとあわれみを。
いつくしみの朝
暑いかなあ、と家を出る。暑いねえ、とすれ違う。暑かったなあと靴を脱ぐ。とにかく梅雨明けからは「暑さ」が主人公。僕たちが脇役にならないように暑さしのぎをどうするかが知恵の見せどころ。
中ジョッキを飲めば暑さを忘れて楽しめますよ、久しぶりの涼しい居酒屋。確かに、蝉やカブトムシにビールを飲む知恵はないだろう。にぎやかな涼の夜。
見るものすべてが陽炎に揺れている。これこそ夏の昼、と言いたいところだが「陽炎」は春の季語。この暑さはのどかどころじゃない。うららかな気持ちにもなれない。
舞い上がれ、という朝ドラの舞台は五島列島。此処は僕の第二の故郷。夏がよく似合う。先週末、三十八年前に家庭訪問をした家で四十代後半の教え子と飲んだ。この連中に「とりあえずビール」はない。焼酎で乾杯、焼酎だけで終わる。酒の肴は、教え子が釣った魚と当時二年生の担当だった先生の手作りの佃煮。絶品。酔い浸る夜。
いつくしみに抱かれた一晩のやさしい宴。島を包む「いつくしみ」に負の感情はない。熱帯夜さえ受け入れられる。僕たちは「いつくしみ」の脇役でいいのかもしれないと気づいた夏の青い朝。
第4章 問いは学習目標へ向かう
大学から届いたURL。なかなかリサーチが行き届いている、と感心。https://sagadaipress.saga-u.ac.jp/archives/17767/
さて、第4章。
・・・・・・
教師は、黒板に書かれたリンゴの絵をそのまま残していた。1個250円。3個450円。その絵を消そうとはしない。生徒たちは、まだノートに問いを書き続けている。教師はその様子を見届けるように、「この問いは、先生のことを知るための問いです。先生が中学校へ来るまでに何をしたのか、どんなことを考えたのか。そういうことを知るための問いですね」と語り始めた。
教師は、今まで立ててきた問いをそのまま受け止めたうえで、問いの向かう先を整理した。少し間を置き、教師は黒板の学習目標を指して、「今からは、教科書の説明文の目標を達成できるための問いを立てるんです」と言った。今日の単元の目標は、「文章の中心となる部分を見つけること」である。ここから問いは、教師の行動を知るための問いから、文章を読むための問いへと向けられていった。
教師はそこで説明を続けず、「みなさん、この目標の中で、分からないことはありませんか」と一つだけ尋ねた。教室は静まり返った。誰も手を挙げず、誰も答えない。教師はそのまま教壇を離れ、一人一人の机の間をゆっくり歩き、生徒の一枚ノートをのぞき込んでいく。生徒がどの言葉に印を付け、どこで鉛筆を止めているのかを確かめていた。
やがて教師は、多くの生徒が学習目標の中のある一語に印を付けていることに気付いた。「要旨」。その言葉が、生徒たちの《私の問い》になり始めていた。教師は教壇へ戻ったが、不思議なことに、「要旨とは何ですか」とは聞かなかった。もっと手前から、「『文章』っていうのは分かりますか」「『中心となる部分』というのは分かっているんですね」と確認していった。
生徒がうなずくと、教師は「じゃあ、問いは立てないということでいいですね」と言った。文章は分かる。中心も分かる。教室には再び考える間が生まれた。教師は「要旨」をすぐに説明せず、生徒が自分の分からなさに向かう時間を残した。
教師が「目標の中で分からないことはありませんか」と尋ねたあと、教室にはしばらく声が出なかった。しかし、机の上のノートには、リンゴの問いとは違う種類の言葉が増えていた。「要旨はなにか」「要旨とは何か」「文章の中心とは何か」「中心となる部分とは何か」「どうしたら中心となる部分を見つけられるか」。あるノートには、「要旨とは どんな 音に味だけのか」と読める文字もあった。おそらく「要旨とはどんな意味なのか」と問おうとしたのだろう。別のノートには、「つけ加えの部分はなんのためにあるのか」とある。問いの対象は、教師の行動から、学習目標の中の言葉へ移っていた。
学習目標を読むことは、そのまま問いを立てることにつながっていた。目標の中にある、自分にとってまだ曖昧な言葉を見付けること。そこから《私の問い》が書かれていく。教師は説明を急がず、生徒のノートと沈黙を見ながら、生徒の机を巡っていた。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
第3章 問いは、詳しくなる
きょうは久しぶりの大学院の授業。これが、ほんとうに味わい深い。
スイミーの作品論で90分。あっという間。院生と味わい深い時間だったねとしみじみ。作家論から作品論、音韻論から文法的読み方などなど。次の演習が楽しみ。そう、めちゃくちゃ楽しみ。「じゃあ、またこの次!」と声を掛けたときに届けられた封書。
――(このゼミは)私が見落としていた夜空に浮かぶ星座を、指を指して共に見てくださるような時間。(僕が)長い年月をかけて発見された喜びを、私も学び、できるようになり、そうしてまた次の世代の先生に恩送りとして渡すよう約束します。――
こんな言葉を僕は大事に両手に包んでしばらく眺めては声に出して読み、味わいたくなる。それは「春先に綿毛のたんぽぽを見つけたときのように嬉しくなる」出会いに似ている。舞さん、もっともっと文学に浸りましょう。約束しますよ、もう少しだけ文学の扉を開けられるようになることを。
さて、授業記録、第3章!
・・・・・・
教師は黒板の前に立ち、生徒たちが書き始めた1枚ノートを静かに見守っていた。「スーパーに寄った」「リンゴを買う」「家に帰って食べる」。わずかな情報しか与えられていないにもかかわらず、生徒たちの鉛筆は止まらない。教室には、紙をこする音だけが静かに響いていた。
しばらくすると、一人の生徒が顔を上げ、「で、どっち買ったんですか」と尋ねた。教室に笑いが広がる。教師はその生徒の方を向き、「先生は、帰りに1個250円のリンゴを買って帰るつもりです」と答えた。そのあと、教室のあちこちで小さなざわめきが起こる。「えっ」「なんで」「3個の方が安いのに」。数人の生徒が黒板の右側に描かれた3個450円のリンゴを見ていた。
教師は、その反応を急いで説明しようとはしなかった。一人の生徒のところまで歩いていき、「1個250円のリンゴを買おうと決めましたが、君の考えとは違いましたか」と穏やかに問い返す。生徒は少し照れながら、「1個あたり150円です」「先生は100円損しています」と答えた。教師はその言葉をすぐには評価せず、「それを、問いにしてごらん」と促した。
生徒は少し考え、「先生は、1個あたり250円のリンゴを買うのはなぜか」と書いた。教師は微笑みながら、「そこに、『私は』を入れてごらん」と言う。さらに、「君は、150円のリンゴを選ぶんですよね」と確かめると、生徒はうなずき、「私だったら1個あたり150円のリンゴを買うのに、先生が250円のリンゴを買うのはなぜか」と書き直した。
教師はその問いを読み、「もう少し、丁寧な問いにできるでしょ」と声を掛けた。教室は静かだった。生徒はゆっくりと言葉を書き直し、「先生は100円も損をするのに、250円のリンゴを買うのはなぜか」とした。教師は笑顔でうなずき、「そうそう」とだけ言った。それ以上、正解とも不正解とも言わなかった。
教師は教室全体を見渡し、「問いは、もっと詳しく問うことができます。自分の言葉をいっぱいつぎ込んで、問いを詳しく、丁寧な問いにしましょう」と語った。生徒たちは、自分のノートに戻っていく。教師は一人の問いを取り上げ、その言葉を少しずつ書き直す過程を、教室全体に見せていた。
問いは、短い言葉のままではなく、少しずつ具体的になっていった。「私だったら」「100円も損をするのに」。生徒が書き加えた言葉によって、問いの中に自分の立場や考えが入っていった。
教師の「1個250円の方を買う」という言葉のあと、ノートの問いは同じ場面にとどまりながら、少しずつ細かくなっていった。「なぜ1個の方を買うのか」「なぜ100円もそんするのに左のりんごを買うのか」「リンゴは、保管できるのに、なぜ1個だけ買うのか」「別に1日で全部食べなくてはいけないのか」「冷蔵庫の中を減らせばいいのでは」。また、「東京に持っていけば良いのではないか」と読める問いもあった。中には「たつとみ先生はなぜ……」のように、教師の名前や理由をたどろうとしているが、途中が判読しにくい問いもある。おそらく、教師が損をしてまで1個のりんごを選ぶ理由を確かめようとしたのであろう。
教師はそこで、「この問いは、先生のことを知るための問いです。先生が中学校へ来るまでに何をしたのか、どんなことを考えたのかを知るための問いです」と整理したうえで、「今からは、教科書の説明文の目標を達成できるための問いを立てるんです」と語った。その一言のあと、数人の生徒が黒板に書かれた学習目標へ視線を移した。リンゴの話は、ここで教科書の説明文を読むための問いへとつながっていった。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
第2章 教室に「なんで?」が生まれた
避難所の話が終わると、教師は少しだけ教室を見渡した。生徒は誰一人として教科書を開いていない。顔を上げて教師を見ている生徒もいれば、机に視線を落としている生徒もいた。教師は、「今から先生が話をします。みなさんは、静かに話の続きを待つのではなく、問いが生まれたら、その言葉を口にしましょう」と告げた。学校では、教師の話は最後まで静かに聞くものだと思われがちである。しかしこの時間、教師はその反対を求めた。問いが生まれたら、言葉にすること。それが、この時間の約束になった。
教師は何事もないように、「きょう、みなさんの教室に来る前に、先生はスーパーエレナ有川店に寄りました」と話し始め、そこで口を閉じた。教室は静まり返る。生徒は教師を見ている。教師も生徒を見ている。しかし、続きを話そうとはしない。沈黙は数秒続いた。教師はその間、教室を見渡したままであった。
数秒の静寂の後、教室の左手から小さな声が聞こえた。「……なんで?」ほとんど同時に、別の場所からも「なんで?」という声が上がる。教師は笑顔のまま「リンゴを買うため」と答えた。すると生徒はすぐにもう一度、「なんで?」と問い返す。教師は「家に帰ったら食べようと思って」と答え、また話を止めた。説明を続けず、問いが生まれる余白を残したのである。
教師は、「先生はこれから、そのスーパーに売っていたリンゴの絵を描きます。みなさんは、ここまでの問いを一枚ノートに書きましょう」と言い、黒板へ向かった。白いチョークで、左に1個250円のリンゴ、右に3個450円のリンゴを描く。絵は決して上手ではなかったが、生徒の視線は自然と右側へ集まっていった。3個450円。1個あたり150円。生徒の興味は、すでにそこへ向かっていた。
教師が黒板にリンゴの絵を描いている間にも、机の上では一枚ノートが開かれていた。話を聞くだけだった時間が、少しずつ書き残す時間に変わっていく。そこには、短い問いが並び始めていた。「なぜエレナに行ったのか」「なにを買いに行ったのか」「どちらのりんごを買ったのか」「なんで高いものりんごを買ったのか」。別のノートには「なんで北海道の記の男の」と読める文字もある。おそらく、教師が語った出来事の人物や場所について確かめようとした問いであろうか。文字はまだ整っていないものもある。けれど、教師の話の切れ目に合わせて、鉛筆で問いを書き残そうとする動きがあった。
教師Yはこの場面を、「教室内に、『誰もが自由につぶやいて、認められる雰囲気』ができていました。多い生徒で30を超える問いが生まれ、国語が苦手な生徒でも10ほどの問いを書いていました」と振り返っている。ここで記録されているのは、単なる問いの数ではない。問いを口にしてもよいという空気が、教室の中に生まれ始めていたという事実である。
教師Mも、「最初は戸惑っていた生徒たちが、少しずつ自然に問いを口にし始める姿を見て、『問い』は特別なものではなく、日常の中にあるものなのだと実感しました。また、生徒たちの構えが解け、安心して授業に入っていく流れがとても印象的でした」と記している。二人の参与観察者の言葉は異なるが、見ていたものは同じであった。それは問いの数ではなく、教室の空気が変わる瞬間である。
教師は、「問いを立てなさい」とは言わなかった。「問いは大切です」と説明したわけでもない。ただ一つの沈黙をつくり、一つの短い話を語った。そのあと、生徒の中から「なんで?」という声が出た。この「なんで?」は、教師の話の続きを求める言葉であり、この時間に最初に教室へ出された問いであった。教室は、教師の説明を聞く場所から、自分の問いを口にしてよい場所へと、少しずつ移っていった。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
第1章 問いは学び方を変える
上五島 島ひつじの会による授業記録です。
・・・・・・
「今日は、問いを立てることができるようになりましょう」
教師は教卓の前に立ち、教科書を開くことなく、黒板に何かを書くこともなく、生徒一人一人の顔を見渡した。国語の授業は学習材の題名から始まることが多い。しかし、この日の授業で最初に示されたのは、学習材でも学習課題でもなく、「問いを立てる」という学習行為への誘いであった。
教師は、「みなさんは、問いを立てることを難しいことだと思っているでしょう。だけど、人は子どもの頃、誰もが問いを立てる名人だったんです」と穏やかに語った。「父ちゃん、どうして」「なぜだめなの、母ちゃん」「この字、どのように書くの」。小さい頃は、誰もが毎日のように問いを立てていた。教室には小さな笑みが広がり、何人かの生徒が隣の席の生徒と顔を見合わせた。
やがて教師は少し間を置き、「誰かに問われたときだけ考える大人になったらつまらないでしょう」と言った。その一言のあと、教室には短い沈黙が生まれた。続けて教師は、「考えることに受け身になってはいけません。自分で問いを立て、考え続けられる大人になってほしいんです」と語る。この語りは、問いを立てることを、教室の中だけの学習方法としてではなく、これから先の生活の中でも必要になるものとして位置づけていた。
後に参与観察者であった教師Mは、この導入について、「『問いを立てることは、考え続ける大人になるために必要なことだ』という言葉を聞いて、教育とは、無意識を意識化し、問い続けることで、人がよりよく生きる力を育てる営みなのかもしれないと改めて考えました」と記している。
教師は続いて、ある災害の避難所での実話を語り始めた。一つ目の避難所では、トイレは汚れ、食事は奪い合いになり、夜になっても周囲への配慮なく大きな声が響いていた。同じ被災者でありながら、周囲への配慮が十分に行き届いているとは言いにくい状況であった。ところが、翌日訪れた別の避難所では、まったく違う光景が広がっていた。トイレはきれいに保たれ、高齢者や子ども、母親から順に食事が配られ、夜は静かに過ごすための時間割まで決められていた。
「なぜ、これほど違ったのでしょうか」その答えは、一人の中学生が書いたホワイトボードにあった。そこには、「トイレを美しく保つには、どのようにすればよいか」「食事を公平に分けるには、どうすればよいか」「集団生活の時間の計画は、どのようにすればよいか」という三つの問いが大きく書かれていた。その周りには、避難してきた人たちが書いた無数の付箋が貼られている。問いの周りに、人々の知恵が集まり始めていたのである。
教師は静かに、「中学生の『問い』が、みんなの『考える姿勢』をつくったんです」と言った。教室は静まり返っていた。数人の生徒は顔を上げたまま教師の方を見ており、机に視線を落としている生徒もいた。話が終わったあとも、すぐには次の声が出なかった。
教師Yは、この導入場面について、「『問いとはこんなに身近なものだったのか』と感じました。避難所の話では、問いが自分や周りを幸せにする実話を聞き、自分もそんな人生を送りたいと意欲をもたせていました。やらされる学習ではなく、自分から学びたいと思うスタートに感動しました」と記している。
ここでも教師は、学習材を開かなかった。説明文の題名も示さず、問いの立て方も教えなかった。まず伝えたかったのは、「問いとは何か」という知識や「どうすれば問いを立てることができるのか」という方法でもなく、問いには人や社会を動かし、自分自身の考え方や行動を見つめ直す力があるという事実であった。この日の授業は説明的文章を読む一時間のはずである。しかし教師は、説明文を読む前に、生徒たちの中に「問いを立てたい」という気持ちを育てようとしていた。学習材と出会う前に、すでに授業は始まっていたのである。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
授業、教室に向かう
きょうは中学校で授業をさせてもらう。「問いを立てる」授業。
あらかじめ準備されたテンプレートの語りは展開を制限する。教室の声は揺れながら、立ち止まりながら調えながら意味を作っていく。
だから、教室での声の共有はキャッチボールではつまらない。ネットのないバレーボールでもない。きっと、大玉ころがしのようなもの。相手とのバランス、大地の状況のよみ、そしてアクセルとブレーキ。
いま、船の中で僕はブレーキについて思案している。
この瞬間がたまらなく楽しい。きょうは、教師してる。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
いくつなっても授業
誕生日に5コマの授業というのはむしろうれしいかもしれない。することがない、なんてまったくない。といって追われているってこともない。風の吹くまま、気の向くままのこれまでだった。
もちろん、これからも。
授業って、やっぱり僕を高める唯一無二の時間だ。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
ともに学ぶ仲間
南極の氷でナースプラザに乾杯
二人きりの授業
きょうは大学院の授業。院生ひとりと僕ひとり。このスタイルは苦手じゃない。ただ、相手がどう感じてくれるかはやや心配。
そう、心配だったはず。だけど、そんなことは3秒で消えた。
「たんぽぽのちえ」だけで60分。
説明文は感動的に読む。ってことを共有できたなら僕は綿毛に乗って舞い上がる気分。
授業、それは300人相手であっても1対1であっても同じ。知的な動きがなければならない。学び手に伝えるだけではなく、学び手をできるようにしなければならない。
ああ、楽しかった。って、舞さんも感じてくれただろうか。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございました。
学会誌に載るということ
大きな学会だからだとは思うが、ここ数日、たくさんの方から便りが届く。日頃、語っていることをまとめただけだけど、ひとまとまりにして文章で残したことにはそれなりの値打ちがあるのだろう。
おそらく、僕の教師としてのキーワードのひとつは《問い》。《問い》を立て、《問い》に向かいながら残りわずかな教師時代をまっとうしたい。そのあと、《問い》を楽しみながら日々を暮らしていきたい。
残り3年。何を語るか。どんな言葉で語るか。それが僕の《私の問い》である。
もちろん、その答えは風の中。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
川口先生んち
さあ、上五島。
僕の鞄には、枕が入っている。これが下船後の動きをしなやかにするこつ。
きょうは、とびっきりの時間が待っている。僕が教師になったばかりのときの先輩を訪ねることになっている。「80歳になりました」の声もたたずまいも35年前のまま。
若かった僕はここの座敷で酔っ払ったことがる。そのときの父ちゃんが高らかに笑って迎えてくださる。
上五島。この島に渡ってくることがなかったら、今の僕はない。祈りの島。上五島。
研究会もあっというまの3時間。往復7時間がうそのように楽しい。これも川口先生と枕のおかげ。
もちろん、お昼は虎屋のカレーうどん。
帰り道。真っ赤な空が五島を包んでいる。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。祈りのうちに。
授業を飾ることば
問題の所在
ちょっと、文章を書いている。まだ、未発表だけど。
↓
近年、学校教育においては、論理的な思考力や記述力の育成が重視されている。「書くこと」の指導においても、「自分の考えを書くこと」が求められ、多くの授業で、「まず意見を書きなさい」「結論を明確にしなさい」といった指導が行われている。
しかし実際には、多くの児童生徒が、「書くことがない」「何を書けばよいのか分からない」「自分の意見がない」という状態に直面している。にもかかわらず、思考が十分に成立していない段階で「主張」だけを書くことを求められることで、結局は、教師が提供した型(記述モデル)だけをなぞった文章や、借り物の意見をつなぎ合わせた作文が生まれてしまう場合も少なくない。
ここで改めて考えたいことは、「どのように書くか」以前に、「自分は何を書こうとしているのか」である。そのことは、つまり、人は何に問題意識をもち、それについてどのように考えているか、を言語化することである。問われるべきなのは、「人はどのようにして問いを言葉にし、問いに向き合い、解決したこと(あるいは解決できていないこと)を文章化するか」ということである。
人は、最初から完成された問いをもっているわけではない。また、「問いを立てなさい」と言われたからといって、直ちに問いを立てられるわけでもない。実際には、何かひっかかる、違和感を覚える、うまく説明できない、といった曖昧な感覚に出会い、それを言葉にしようとする中で、徐々に「自分が本当に問いたいこと」へ近づいていくのである。
ただし、すべての児童生徒が、自力で「ひっかかり」に出会えるわけではない。また、自分の内部に生じた「ひっかかり」を、そのまま問いに結びつけられるわけでもない。だからこそ、教師には重要な役割が生じる。その役割とは、「正しい問い」を教えることではない。むしろ、児童生徒が、自ら「ひっかかり」と出会い、それを言語化できるようにてびきすることである。
本研究では、この教師のてびきをひっかかりのための「ささくれ」と呼ぶこととする。
「ささくれ」とは、思考を強制的に方向づけるものではない。それは、当たり前だと思っていた見方に、小さな揺れを生じさせるものであり、通り過ぎてしまいそうなことがらに立ち止まらせるものである。児童生徒は、その揺れや立ち止まり、つまりひっかかりから「どのようにすればいいのか」「どのようになっているのか」と考え始める。そして、その過程の中で、問いが徐々に立ち上がっていくのである。
本研究は、国語科授業等における実践を通して形成されてきたものである。特に、児童生徒が問いを立て、自己対話を通して問いから中心的主張へ至る過程を観察し、その思考形成過程を理論的に整理したものである。
本稿では、具体的実践事例の網羅的分析を目的とするのではなく、実践を通して見出された思考形成過程を概念的に整理し、「自己対話の五段落作文」を思考形成モデルとして再定義することを目的とする。
ここで確認しておきたいのは、本研究は児童生徒が自らの力で「問いを立てる」ことを否定するものではないということである。むしろ、本稿で明らかにしたいのは、児童生徒が「問いを立てる」ために、どのような過程で「ひっかかり」と出会い、その「ひっかかり」を言葉にしていくのか、そして、そのために教師は、どのように「ささくれ」と出会えるように支えていく必要があるのかを明らかにすることである。
したがって、本研究において重要なのは、「問いを立てる技術」ではない。むしろ、人がどのようにして問いへ近づき、問いを支える自己対話を通して、自分の言葉へ到達していくのかという過程なのである。
言葉を綴るって、心がすうっとなる。神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
同窓会みたいなもの
つきあたりの少し手前
画家さんの真似をして両手の指で四角を作ってみた
四角の指で景色が切り取られる
切り取ったところは額縁にかこまれてくっきりする
だけど僕の指の額縁のために見えなくなったところもある
僕の指の向こう側にも景色は続いているのに
僕の四角で校舎も遊具も銀杏の木も見えなくなる
ベビーカーもママの帽子も見えない
居酒屋の暖簾も赤い顔のおじさんも
風に吹かれる白い雲も見えなくなる
本当はあるのに見えない
見えている指の額縁のために見えなくなったものがある
見えなくならないようにするには額縁なんて見ないほうがいい
ずっと見ていたいなら額縁の向こうに行けばいい
空の全部を見たいなら
空をさえぎるものの向こうに行けばいい
空のつきあたりに行かなきゃならない
じゃあ
あなたの心を全部見るならどうすればいい
どこに行けばいい
あなたの心のつきあたりはどこ
僕は今
あなたの心のつきあたりの少し手前まで来ているみたい
見えていそうで見えきっていない
そんなもどかしさの中でとにかく見ようとしている
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
心おだやか
すてきな風景
お前なら羽ばたける
ここにも子どもの声が
50年前は子どもだった日
男はつらいよ
上五島に向かうフェリー。僕は自分の枕を鞄に入れて来た。この数時間は僕を若返らせるし、僕の信念を確かめさせる。
25歳のときの僕に戻らなきゃ、って。
今夜、上五島の仲間と語るために船に乗った。
中通島が見えてきた。津和崎、仲知。
似首、丸尾、35年前は赤い屋根だった教会。エレナ有川店。
さあ、仲間と合流。とにかく語って、食べて、飲んで、騒いで、、、
今夜は「男はつらいよ 第35作 寅次郎恋愛塾」で寅さんが泊まった地に泊まる。
みんなが宿まで送ってくれる。家族のようなこの時間に胸が熱くなる。
また来るけん。
港の別れはさみしいから、こっそりと早朝の便で帰ろうっと。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
まんまる
美味いものの旅
春が通り過ぎそう
授業が始まってからというもの、朝のは5時前に起きて、7時前には家を出て、夜は9時までに帰れたことがない。
ずっと立ってる、ずっとあるいてる、ずっと語って聞いている、そうずっと教えてる。
大村先生が天に召された日を忘れることはないけれど、なんとも気ぜわしい。
走るだけじゃいけない。こんなときこそ問いかけなきゃ。こんなときこそ立ち止まらなきゃ。こんなときこそ目を閉じて、深呼吸。
神さま、何をお望みですか、って。
大村先生、達富は未だこんなところに居ます。未だ指月の指が見えていません。先生が導いてくださっているのにまだまだです。
教えてくださったから分かるのではなく、教えてくださっていないのにできるようになりたいのです。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。大村先生、きょうはどの星から私たちを見てくださっているのですか。
説明文を読む単元
今日の朝のNHK。
「さわやか自然百景 選 東京 多摩川水系 浅川」。
感動した。これ、そのまま単元になる。
今シーズンのプロ野球も終わったし、もっと教養のテレビも見なきゃ。
甑島、大きく深呼吸
名残りの春
大阪万博を記念にオープンした千里阪急ホテルが56年の歴史を閉じる。
日本的洋風ホテルがまたひとつなくなる。
ゆったりと味わうように泊まりにきた。
夢見草一夜の宿の灯となりぬ《葉雨露》
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
探究するということ
探究するということは、解き続けることではなく、問い続けることである。このことをいま一度、確認しよう。
学問という言葉が、学ぶ+問うなのか、学ぶことで問うのか、問うことで学ぶのか、どれも耳に心地よいけれど、僕たちは解き続けているのではなく問い続けているのは間違いない。解けなくても新たに問うし、解けないからこそ問い続けているような気がしている。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
朝から、小野さん!
僕はたしかに五島にいた。
五島、この聖なる島。
見いつけた
髪の毛、のびたね。
入ってくるものと湧いてくるもの
器にものが入ってきたとしよう。器は満たされる。ものがなくならない限り器はそのままだ。ものを出さない限り、新しいものが入ってくることはない。もういいや、とものを出したら器はからっぽになる。
器の中にものが湧いてきたとしよう。器は満たされる。ものを出さない限り器はそのままだ。ただ、そのものに飽きたりつまらなくなったり十分に楽しんだりして器から出しても、また器には新たなものが湧いてくる。
《問い》を立てる、ってそんなものだと言っていいと思う。
発問を受けることと《問い》を立てることって、全然ちがう。
だから僕たち教師が発問するときは、たずねて完結するよりも、個人の《問い》が湧いてくるようにたずねるほうがいいように思う。
こんなことを考えながら地下鉄に乗っている。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
ふつかおくれの記念日
学校図書館で国語科の単元づくり
「書くこと」の単元。指導事項は取材、集材。教室の中のモノを選んで、情報を集めて取捨選択する。説明文を書くことの学習のはじまりとして取り組みやすい単元だ。僕もやってみたことがある。教科書のモデルもたいへん分かりやすい。
ただ。ただ、である。
教室の中のモノを選ぶことができない子どもがいたらどうするか。「ほら、鉛筆けずりがいいんじゃない。」「電子黒板はいろいろなことが出来るよ。」「黒板ふきをきれいにしてくれる機械ってどんなふうになっているかな。」と、いくらいざなっても「ふうん。」「さあ、」という反応しか返ってこないことだって予想できる。
興味や関心の違いは個人差の代表である。個人差=能力差、と決めつけるのはよくない。興味や関心の違いがあるから、学習の深まりに違いが出来てしまうことを教師はよく知っているはずだ。だったら、大村先生のように興味や関心を育てる教師になるしかない。
この単元がはじまる前から子どもの中に入って下ごしらえをしておくべきだろう。選べないことを恥ずかしく思う子どもをつくらないためにはどうするか。そもそも選ぶとはどうすることか。教師としてそんなことを知らずに声を張り上げても指導の言葉は空回りするしかない。教えられる教師になる。
ということを、実感してもらうことを考え、きょうのワークショップ形式の研究会を開催した。
僕が準備したのは45の問いと学習用具としてのメモ用紙。そして、語りと語らいの時間。
ベテランの域にいる教師たちが3時間、書架を何度も巡ったり、床に座って文字を追ったり。頭をはたらかせて学びきった。
教師たちを学び浸らせるのも僕の仕事、かもしれない。
もちろん、教師と語り合うのも僕の仕事、にちがいない。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
《問い》を立てる力をつける
島の教室に学ぶ
はじめての島。長崎県五島列島の小さな小学校から教師を始めたからか、島の学校に強烈に惹かれる。
島に学校が「ある」。
島の子どもに学び浸る時間をつくりたい、それだけが若い頃の僕の使命だったかもしれない。
そして、きょう。すべての学級の授業を見せてもらった。1人の教室、2人の教室。どの教室にも穏やかな時間。そう、この時間。この空間。
個人差の中で学びが繰り広げられるとき、わたしたち教師にはどのような手立てが求められているのだろう。20人を超える学級では見えないふりができても、ここではそれができない。目の前の事実から学べることがたくさんある。島の教室は、僕をもう一度、教育実習生に戻してくれる。
小中学校の先生がた、尊い時間をありがとうございました。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
ばけばけ、「なので」
2月19日、第99話。
今朝の「ばけばけ」。
松野家からなくなった「焼き網」について正木が探偵ふうに推理していくという話。
最近、「ばけばけ」がちょっと面白くなくなってきたなあ、15分間が退屈になってきたなあ、と感じていた僕だったが、きょうは少し反応した。
それは、正木が推理の後段、「なので」と言ったから。
NHK放送文化研究所のホームページには次のようなQ&Aがある。https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/117.html
Q「なので」ということばの使い方がおかしいと言われました。
A「なので」には2種類あり、「退屈ナノデ出かけてきます」のように1つの文の中で使われるもの(「文中ナノデ」)と、「退屈です。ナノデ出かけてきます」のように前の文を受けて次の文の頭で使われるもの(「文頭ナノデ」)とがあります。このうち「文頭ナノデ」は、使われ始めてからの歴史が浅く、違和感を覚える人もいます。
「ばけばけ」は明治中期の話なのに、自然と何でもないように、「なので」を使った書生の正木のしゃべりに違和感を覚えたわけ。
ただ、脚本家のふじきみつ彦さんは、随所に言葉の遊び心を散りばめているから、脚本としての流れに不自然さはない。
ヘブンさんが求める「ビール」とは何かを探し、思い巡らせるおトキが友人の「サワ」を連れてくるところなどは失笑するしかない。明治時代にサワーはあるはずがない。
「好いちょる」を虫の音のスイーチョンと重ねるところなどはふじきみつ彦ならではの言葉あそびなんだろう。
ただ、今朝は「言葉あそび」でく、馴染みのない言い回しだったから反応してしまったんだ。
「だから」「やけん」「だけん」「じゃけん」いろいろ考えられそうだけど、「なので」はちょっと馴染めなかった僕は、今から再度、録画を見るつもり。
ということで、最終回が来てほしくないなあと、2月を惜しんでいる。
蜂の巣?
呼子の小学校を訪ねた。3年生の言語活動に安定感がある。子どもが何をするのかを理解している。
僕が授業者に言ったことはひとつだけ。
「もっと学びたがっていると思いますよ。もっと個人差に応じたテンポで進めたらどうでしょうか。」
子どもの力を安く見積もらないこと。個人差に向き合うこと。
気持ちのいい研究会だった。
そして帰り際。前日にもらった「隠れた唐津のスイーツを準備してお待ちしています。ご家族のお土産にお持ち帰りください♪」のLINEが気になっていたのは本当。
何が出てくるんだろう?
とびっくり。
家に帰って、開けててまたびっくり。大きな蜂の巣かと思った。松原、茂る松葉であることは分かっていても蜂の巣に見えてしまう。
食べて、3度目のびっくり。このスイーツ。くせになりそう。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
最後の担任、です。
たつゼミ+たつゼミ=とってもいい!
きょうは佐賀大学国語教育学会の卒業研究発表会。達富ゼミ(たつゼミ)の学生の研究発表も完ぺき、分科会での質疑も見事。僕はそれだけで十分だった。
ただ、その感動をさらに深いものにしたのが3年生が企画した読書会(親睦会)だった。
「つながり」を大事にしたいと言いながらもこの大学ではできなかった「つながり」。それをさりげなく、だけど丁寧に、そして着飾らず、普段着で、そして包み込みたくなるようなやさしさで形づくってくれた3年生。それをさらにあたたかく受けてくれ、あたたかさで返してくれた4年生。
最後の担任。これが本当になればいいのに、これが僕だけの思い込みでなければいいのに、これがずっと続けばいいのに。
最後の担任。このことば。60年を超える僕が綴ったこれまでの作文の中のいちばん気に入っているいちばん尊いいちばん大切なことば。
最後の担任。えらそうなことを言ってごめんなさい、という気持ちとともに、そうありたいという願いをこめて。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
問い返すということ
今年になってから、各地の研究会で《問い》を立てることが話題になることが多い。いよいよ《問い》が根づいてきたか。そして、話題は《問い》の質や《問い》の修正、《問い》の更新へと広がっていく。
このような教師の関心に対して僕なりにひとこと言うと、それは「問い返すこと」でしょ、ということになる。
《問い》は目的でも目標でもない。《問い》を立てることはとても大事なことではあるが、《問い》そのものは過程の中での足あとのようなものである。
だからこそ、はじめの足あとであるはじめの《問い》を見つめなおし、少し調った、そして値打ちのある《問い》になるよう自分に問い返すのである。これからしばらく付き合っていくことになるこの《問い》に愛着と手強さを感じつつ、学びがいを実感し、向き合うために問い返すのである。
はじめの《問い》なんて一瞬でその姿を変えてしまうことが多い。1度目の問い返しによって、はじめの足あとはたちまち新たな足あとに移動するからである。
《問い》。きっととても大事な足あとなんだと思う。この足あとのつながりを軌跡というんだと思う。そしてその軌跡が今の僕の後ろに見えるから成長を感じるんだと思う。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
朝ごはんは船の中で
心を空にあずけて
この中学校、、、
旅の途中
日本列島 雪景色
生活のうるおいに
教養があるとどうなるか。知性がないとどうなるか。知性があるとどうなるか、教養がないとどうなるか。
そんなことを考えるながら運転をするのが好きだ。
もちろん、先週は教養とは何か、知性とは何かについて、ああだこうだと大学と自宅を4往復した。
「そんなの検索すれば出てくるでしょうし、生成AIにたずねれば考えてくれるでしょう。」って、真顔で進言してくれる奴はつまらない奴。
端末の画面に勝手に並べられる言葉に心はない。生成AIは言葉を合成してくれるだろうけど、情意を紡ぐことはこれっぽっちもできやしない。。胸の高鳴りを編むことなどあり得ない。
僕たちが自分の言葉で考え、伝え、受け止め合うことで、ただの言葉が生活のうるおいに変わることをもっと実感したい。僕の「あんなあ、」とか、「楽しいことしよっ!」とか、「梅田かなナンバまで歩かへんけ」とか、言葉を受け止めて、返してくれる人はおらんかなあ。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
唐津といえば、えびす湯
予定変更をどうする?
まあ、人が作る毎日だから変更があるのは仕方ないけれど、変更っていうのは玉突き衝突をするから困るよなあ。
これが変わりますから、と言うのはいいけど、言われたほうはあれも変えなきゃ、ってなる。
この玉突きって、もしかしたら僕の知らない人にまで影響を与えてるかも。
ということは、年中、予定すかすかにしておくしかないなあ。そうすれば僕からの玉突きはなくなるんだから。
ただ、すかすかって、少しばかりつまらんなあ。
どうすれば玉突きしない充実な日々になるんだろう。ここにも《問い》が立つ。
蟹の匠
みんな同じように
松屋、
美味しい○
お天気しだい
バスの旅はそれだけでうれしくなる
工夫するって、かっこいい
ここから
鉄道は人なんだよ
子どもが読む本を選べる力をつけるには。
学びひたってしまう問いとは。
教師たちの《問い》は本物の研究を創り出す。
そんな一日を過ごし、このあとは楽しい時間と美味しい食事を、と思っていた矢先。明日のANA便が欠航のおそれという情報。
今日中に動き出さなければ明後日の授業に穴をあけてしまう。それはできない。
ということで、急遽、鉄道で西へ西へと向かうことにした。
「ばけばけ」に盛り上がるこの地を走る列車にこれからの移動のすべてを任せるしかない。
とはいえ、こんな小さな駅に停車するには長過ぎはしないか。
話しかけてもいいものかと、迷いながらワンマンカーの運転手さんに状況をたずねた。
悪い予感どおり。かなり遅れているし、さらに遅れるらしい。
このままで次の鳥取からの特急に乗り換えることさえできない。そうなれば今夜中に博多に着くことすらできない。なんとかして鳥取からの特急に乗りたい。
「お客さんは何処まで行かれるんですか。」
長崎です。
「他にも何名かおられますか。」
それは分かりません。
「(停車中の運転台から出てきて)車内のお客さま!鳥取から特急に乗り継ぎの方はおられますか」
(やっぱり誰もいない)
矢継ぎ早のやりとりに焦りと諦めが交互にやってくる。
その後、運転台では鳥取駅の駅の機関区との長いやりとりが続く。
そして、
「大丈夫です。連絡取れました。鳥取に着いたら隣のホームに急いでください。20分ほどの遅れです。特急を待たせています!」
とのこと。
かっこいい!そんな言葉しか思いつかないほどかっこいい。
鳥取駅に着いたとき、ドアの前には駅員さんが待ってくれている。僕を隣のホームまでの最短の道で案内してくれる。
鈍行を降りるとき、運転手さんに声をかけた。
「ありがとう。運転手さんのおかげで助かったよ!」
運転手さんが言う。
「鉄道は人ですから!」
どこまでもかっこいい。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
旅の宿
はじまりはじまり
春風献上
白い雲が悠々と流れるように、青い海を風に吹かれて航るように。
この一年がこれまでにない成長を連れてきてくれるような気がする。
やりたいこと、たくさんある。
それを叶えられるように一人一人の仲間と時間を共有したい。この指とまれっ!
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
年の瀬
大根のお漬け物こそ家庭で
年忘れの会
きょうは長崎と佐賀の仲間と年忘れの会。
存分に語り、底なしに飲み、適度に食べ、ゆったりとした時間だった。みんなのそれぞれの1年間を聴き、僕の1年間を聞いてもらい、私たちの今からを約束し、たっぷりと心やすらぐ時間だった。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
研究室のそうじ
きょうは研究室のそうじ。何人もの学生を迎え、何回も研究談義を交わし、何泊もしたこの部屋の片付けは気持ちのいいものだ。
前の大学の研究室はゼミ生が総出ですべての本を書架から出してほこりを拭き取り、窓ガラスをみがき、掃除機をかけてくれた。そのあとは街へ繰り出して「年忘れの読書会」をしたものだ。
今はひっそりと自分のペースで日々の過ぎるはやさを確かめながら書籍を整えている。
と、気づき。
読む本が限られてきている。読まない本はとんとご無沙汰。
それなら、と昨年も一昨年も何百冊もの本を処分したにもかかわらず、今年も場所だけ占領して日々の授業には登場しない書籍がずいぶんある。
ということで、今年は段ボール20箱分に別れを告げた。
そういえばきのうは家のクローゼットの片付けをしてPapasの紺のジャケット8着などをごみに出した。今年は新しいジャケットを3着つくったら当然と言えば当然なんだけど、入れ替えは大事な仕事だ。
さて、昼でも食べに出よう。この大学に通って10年をこえるけれど馴染みの店はまだない。それが気楽なような物足りないような年の瀬のお昼を何にしようかと考えながらすっかり枝葉を落としたキャンパスの並木道を歩いている。
2人のあいだには声
宮古島に
ここは聖なるところ
今年もこの時期が来た。Entry & Conference!
書写指導法の授業をどうアクティブラーニングかするか。
次々とアイディアが生まれる学生のしなやかさに感激。書くばかりが書写じゃない。
折れを体感するにはこんな方法もある。
こんなことをさらりとやってのける大学生。教師をめざす若者。とっても純粋だ。
書写の学習の導入のためにどうやって子どもの興味をつくるか。育てるか。
こんなことをじっくりと創り出す大学生。教師を目指す若者。とっても頼もしい。
僕はここに導かれたように感じて、そのことにとっても感謝して、そしてもったいないくらいの気持ちになる月曜日。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
財力の国語科単元学習
きのう、きょうのキーワードは「財力」。要るもんは要る。無駄になるかもしれない教材へのワンクリックは実りある学習材化のための投資。
着るものや食べることや泊まる処もせこくはなりたくないけれど、授業のために欲しいもんは買う。このスタイルは外せない。
ということで、「南風の会」「はまかぜの会」で提案したことには投資が必要だけど、その分、児童生徒の学びの飛躍的な深まりは約束できる。
財力の国語科単元学習。次回は2月。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
大村に学ぶ
大村は言う。
昔のとおりやっているという人たちで、これでいいのだと安心している人も少ないのではありませんか。自分のしていることに対してなにか不満な不安な気がし、なんとかしたいと思いながら、さて、どこからどうしてよいかわからない、という人が多いと思います。単元学習によったらよいのではないかと心を引かれ、講習会・研究会のときなどは大いにやってみたい気持ちになるのだけれど、さて、自分の教室にもどってみると、どうしてよいかわからず、といって、授業を休むわけにもいかないので、つい、持ち合わせの方法、しらずしらず、自分が教えられたときの方法などで、一日一日過してしまう、こういうことが実際多いのではないでしょうか。」
そして、教師の成長のために応援してくれている。
一つには、ご自分のしてこられたことがどんなに単元学習になっていたかを知って安心し自を持っていただくように。
一つには、一歩前進するために、どこか一角でも切りかえるのには、どのようにしたらよいか、取りつきやすい一角を実際方法とともに見いだしていただくように。
ただ、次のようにも付け加えている。
たいへん心配なことは、単元学習に何か一つの型があるように見えはしないかということである。まず手始めに、こんなふうに行われることをこのように切りかえてはどうでしょうか、という一例をあげたのに過ぎない。例をあげ、実際を書くと、型のように受け取られ、形だけが受け取られやすい心配がある。けれども、こうなのであるから、あとは自分の教室の実際にあたって、めいめいくふうで生かすのだと終ったのでは、いまこの文を読んでいただくかたにとっては、やはり苦しみ、重荷が残ることになるであろう。せっかく、新しい一歩を踏み出そうとしていた熱意もくじけてしまうであろう。やっぱり危険をおかして具体的実際的に密こうとした。それに、もしどこかお役に立つ一節があって実践していかれたら、とてもその手始めにした型めいたことにとじこもってなどいられるものでなく、次次とくふうが生まれ発見できて、「型だ」というような見方は、けっきょく、やってみない間のものであったと気づかれるであろう。
大村の心配と配慮とてびきを私たちは適切に受け止めているだろうか。理解できているだろうか。本当に学び成長しつつあるだろうか。
さあ、鹿児島。
学び合いたい。
単元づくりの研究
この土日に鹿児島で単元づくりの研究を行う。今、僕が考えている単元づくりのすべてを語り共有する。大村先生に教わったことを現代の文脈にそってパラフレーズし、みんなで声の共有を図りたい。
大村はまから吹いてくる風を全身に受け、大きく育つ土曜日曜にする。
「待つ」ことに感謝してくれている仲間のもとに駆けつけたい。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
さて、その前に今夜は東京。
天草滞在、3時間
常宿から天草に向かう。
右手に見える島原半島にいつも思いを巡らしてしまう。自分が今、長崎に住んでいることを確かめさせ、40年ほど前に長崎に済むことを決めたことを思い起こさせる。長崎は憧れだった。
車は上天草を通り抜ける。五橋に向かう。二号橋手前。
この宿。懐かしい。だけど、まだセキトマラーン。
さて、天草に到着。国語教室の会。2人の中学国語科教師の実践に学んだ12月13日。きっと20名の誰もが大満足の3時間だったに違いない。
研究会とはこうあるべきだ。と、自信をもって言える。忙しくない者は1人もいない。だけど誰もが定刻に集まる。学びたがっているのは子どもも教師も同じ。受け身という言葉なんかこの研究会には存在しない。
都合で参加でない者さえもが、30分前に来て準備を済ませて会場をあとにする。見送る僕たちの目頭が熱くなる。大袈裟じゃない。仲間とはそういうものだ。「いいパパして来いよと」学びたがっていることくらい背中を見ればすぐ分かる。
きょう学んだことを伝えるから、兄弟、年が明けたら語り合おう。
きょうはこれから島原半島の小さな旅。馴染みの定食屋でお昼を食べて、いつもの温泉につかり、地元の野菜を買って帰る。これが天草帰りの道。
さてと、来週は東京から鹿児島へ。翌週は宮古島。そして、最後の日曜日は九州の仲間との年忘れの会。めいっぱい楽しもう。僕の2025年も残りわずか。
そうそう、帰りのフェリーは貸し切り。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
手応えは突然に
葡萄の木
アクティブラーニング「書写」
学びをつなぐ
こんなところにお月さま
創立記念ミサ
きたろうに来たろう
ホテルの部屋で
生中継
2025年11月28日
12時50分。研究主任の山口プレゼン、かんぺき!そのプレゼンデータ、ほしい!
13時35分。2年生教室、6年生教室、歴史的と言ってもいいほどの授業が繰り広げられている。
15時00分。学校教育指導班主査の指導助言。
15時10分。さあ出番!
ともだち
神秘的な朝
東京、日帰り
何年ぶりだろう。広尾を歩いた。以前、友人が住んでいたこともあったのでだいたいの方角は分かる。何10億円するのかわからないような大きな家の前で遊ぶ子どもも長崎の漁村に戯れる子どもも笑顔の愛らしさは変わらない。
さて、14時半からが僕の出番。
子どもの行為が実現する学び性を伝えるのがきょうの僕の仕事。
庭の赤い木の実を集めるのも、玄関で家族の靴を並べるのも、川原で足を積み上げるのも、行為の造形の学び。
何気ない日常を日記にしたり、家族とのやりとりを切り取って短い作文にしたり、教室の風景を物語に仕立てたりするのも行為の言葉の学び。
欲張ってしまうのは僕の悪いくせ。そんなの分かってる。
ただ、僕はとにかく一生懸命に伝えたかった。子どもは一生懸命に伸びたがっていることを。子どもはできるようになりたがっていることを。いちばん近くにいる大人がこのことを信じなきゃ。
帰り道。街はすでにクリスマス。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
さあ、いくよ
日曜日のお昼は草木ケ原
こひつじの会
鳥栖は仲間の町
月曜日がいい気分
月曜日の4コマがいい気分。
90分×4コマ、座ることなく授業をするのはもちろん大変なこと。だけど、そんなことも感じないくらいいい気分。
月曜日の帰り道は少し大きめの音量で、Let it be。
コンサートがつらい
正直に言うと、今夜のコンサートのチケットを買っておいた。16時会場、17時開演のコンサートだ。
こんな田舎町に住んでいると文化レベルを下げないためには工夫が必要だ。毎月、東京や大阪に行くことはもちろんだけど、長崎に来るアーティストはできるだけ迎え入れるようにしている。
今年は今夜のコンサートと8月6日の稲佐山ライブのチケットを買ったけれど、結局、稲佐山には行かなかった。
そして、きょう。
やっぱり行きたくなくなった。どうしても行きたくない。
ということで、友だちにチケットをもらってもらった。無駄になった22,000円がどうのこうのよりも、コンサートに行かなくてよくなったことで、胸につっかえていたものがなくなった。
だったら、はじめから買わなきゃわいいのにと、妻は言う。
だけど、文化的刺激を忘れたくないからと僕は言う。
歌詞の上手さはずば抜けている。だけどMC長過ぎ。
バイオリンの音は心地いい。だけどギターの持ち方がちょっと…。
ということで、そろそろ開演のはず。それよりも僕は九州場所中日八日目、平戸海の一番が気になっている。
神さま、きょうもいつくしみをありがございます。
日曜日は文具の手入れ
梅田からナンバまで
授業
今日は大阪府小学校国語科教育研究発表大会。仲間が何人も授業をする。どの教室にも行きたいんだけれど、役割があるので一つの教室、一つの授業、一つの分科会に参加した。といっても、そこは体育館。
100人を超える参会者の中、授業者と子どもが創った45分は圧巻だった。
指導事項(カ)、共有。
こんな学びを見たことがない。
僕にはこのような授業をする力量はない。同じ時間、同じ空間に居られたことにとにかく感謝だ。
モレスキンのノートに書き込んだ授業録は僕のたからものになった。書き込んだ授業の価値の分析は僕の学びの足跡である。書き込んだ子どもの姿は今にも動き出しそうだ。
逢澤望教諭。この教師、僕のライバルである。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。




















































































































































































































































