ケーベル先生になりたくて/達富 洋二

木の葉の間から高い窓が見えて、その窓の隅からケーベル先生の頭が見えた。傍らから濃い藍色の烟が立った。先生は煙草を呑んでいるなと余は阿倍君に云った。/この前此処を通ったのは何時だったか忘れてしまったが、今日見ると僅かの間にもう大分様子が違っている。甲武線の崖上は角並新しい立派な家に建て易えられて、何れも現代的日本の産み出した富の威力と切り放す事の出来ない門構ばかりである。その中に先生の住居だけが過去の記念の如くたった一見古ぼけたなりで残っている。先生はこの燻ぶり返った家の書斎に這入ったなりめったに外へ出た事がない。その書斎は取も直さず先生の頭が見えた木の葉の間の高い所であった。◆夏目の短篇の冒頭。学生の頃。面影橋近くの神田川沿いを歩く。クリーニング屋の脇に山吹が揺れる。傍らに座り短編集を開く。ケーベル先生のゼミに入門した気分になれる。四十を越えた僕。ケーベル先生はまだ僕のゼミの先生だ。