棘/達富 洋二

雑木林を越えたところに秋篠寺がある。光仁天皇ゆかりのこの寺の伎芸天にはじめて逢ったのは学生の頃だ。◆立原正秋によって描写される伎芸天は決してやさしいだけではない。我が身の隙間を辛辣につく厳しさがそこにはある。◆聞くところによるとこの伎芸天は頭と躰が違う時代に作られたらしい。天平の乾漆造りの頭部と鎌倉の木造彩色の躰が同じ立像として生きている。動き出しそうなわけだ。◆かすかに傾いた首。揺れそうな腕の傾き。今にも僕に届きそうだ。半時間もその前に居れば息苦しくなる。だけど御堂を出ると無性に引き返したくなる。◆立原はこの立像に恋したらしい。僕はこの立像にたまに逢いたい大学ノートに残した。◆五月雨の水曜日。七年ぶりに御堂の中に入った。伎芸天も少し齢を重ねたようだ。小一時間。御堂を出ようとふと振り向いたときの立像の目はあの頃のようにやさしかった。四十一になった僕の耳に「棘がとれましたね」と声が届いた。

2005年6月15日 | カテゴリー :