「みんな」に私は存在しているか

研究発表会に参加している。一昨日、昨日とハイブリッドスタイルの研究会。両日、200名を超える参会者とみんなで学び合った。福岡も東広島もその真摯な学びの姿に、僕は一人の参会者として自分の存在が恥ずかしくないか何度も謙遜のうちに確かめるしかなかった。

翻って普段の研究会。みんなで学ぶ、一緒にやろう、仲間だから、と言い続けている。

しかし、その「みんな」の中にそれぞれの私はいるのだろうか。《私の問い》などと説いているのに、自分の仕事の世界のどこに一人一人の私はいるのだろう。

これからは、みんなという便利なことばをやめるのがいいのかもしれない。仲間なんて耳に心地よすぎる。なんか嘘くさいかもしれない。

行橋と東広島に学んだ週末。本当の「みんな仲間」になるためには、「私たちみんな」であり、「私たち仲間」でなければならない。

「みんな」というひとくくりは誰が誰かわからないひとかたまりではなく、それぞれの「私」の集合体でなければならない。

だけど、そんな言葉あそびにも少し疲れつつある。

こんなとき、僕は神様とおしゃべりしたくなる。