分かりやすい説明文は一人で読むだけですっきりと理解できる。味わい深い物語は何度も読んでみたくなる。誰かと語り合いたくなる。そう、説明文は論理的だし、物語は感動的なんだ。
だからこそ、説明文を感動的に、物語を論理的に読んでみたい。
例えば「どうぶつの赤ちゃん」。
・しまうまの赤ちゃんは、生まれたとき、もうやぎぐらいの大きさがあります。
・しまうまの赤ちゃんが、おかあさんのおちちだけのんでいるのは、たった七日ぐらいのあいだです。
これって、
しまうまの赤ちゃんは、生まれたとき、やぎぐらいの大きさがあります。
しまうまの赤ちゃんが、おかあさんのおちちだけのんでいるのは、七日ぐらいのあいだです。
でも、通じる。
だけど、「もう」や「たった」があることでこの説明文はうんと分かりやすくなるし感動的になる。
例えば「ごんぎつね」。
・ごんは、ひとりぼっちの小ぎつねで、しだのいっぱいしげった森の中に、あなをほって住んでいました。
・ごんは、見つからないように、そうっと草の深い所へ歩きよって、そこからじっとのぞいてみました。
・ごんは、村の墓地へ行って、六地蔵さんのかげにかくれていました。
「おれと同じ、ひとりぼっちの兵十か。」こちらの物置の後ろから見ていたごんは、そう思いました。
・ごんは、道のかたがわにかくれて、じっとしていました。
・ごんは、お念仏がすむまで、井戸のそばにしゃがんでいました。
ごんはいつも隠れている。出てこない。出てこないけれどいろんなことを知っている。考えている。想像している。そして、出てきたとき、悲しいことになる。
ごんの心情を考えるとき、ごんがいる場所を点検することで分かってくることも少なくない。
僕は大村先生に「直接たずねなさんな」と教えてもらった。「子どもが考えてしまうように語りなさい」。
だから、今は、「直接的な《問い》」ではなく、言葉と言葉のつながり、文と文のつながり、思いや考えと文とのつながり、作品と読み手のつながり・・・・・・。そんなつながりの中で《問い》を立てられる子どもを育てたいと考えている。
「どうぶつの赤ちゃん」を読んで、「ライオンの赤ちゃんやしまうまの赤ちゃんに詳しくなる(ライオンの赤ちゃん博士やしまうまの赤ちゃん博士になる)ことを目指しているわけではない。「たんぽぽのちえ」を読んで、たんぽぽ博士になることはめあてではない。
「ごんぎつね」を読んで、「悪いことはしないよ」「自業自得だからしかたないよ」って感想を言わせることをめざしているわけではない。「海の命」を読んで、漁師にあこがれることはめあてではない。エーミールしかり、メロスしかり、ルントウしかり、ダイコンの鰹節もそう。
国語科教育は、「言葉を操作できること」だけを目的にしているのではなく、言葉の獲得(習得)と活用(習熟)を往還しながら、生涯、言葉の学びを楽しみ、人間関係をひらいていくことができるように「言葉の学び手として成長できること」を目指さなければならないのではないでしょうか。言葉を操作できるように教え、そして、操作できるようになったことをつないで役立つように生かし、言葉の学び手として成長していくように教えることが必要です。どちらかだけでなく、互いに高まっていくように教え、活用していけるようにしたいものです。
きょう、仲間の野田梨江さんが僕の中等国語科教育法Ⅰの授業に来てくださり、『ここからはじまる国語教室』の一節を音声にして学生に語ってくださった。
そうそう、そうなんだ。って、今さらながら、説明文は感動的に、物語は論理的に、学ぶ。そんなことが教室を創造的にすることを思い起こした。
北海道の小学校から連れてきた《教師たちの問い》について考えてみた。