大村に学ぶ

大村は言う。

昔のとおりやっているという人たちで、これでいいのだと安心している人も少ないのではありませんか。自分のしていることに対してなにか不満な不安な気がし、なんとかしたいと思いながら、さて、どこからどうしてよいかわからない、という人が多いと思います。単元学習によったらよいのではないかと心を引かれ、講習会・研究会のときなどは大いにやってみたい気持ちになるのだけれど、さて、自分の教室にもどってみると、どうしてよいかわからず、といって、授業を休むわけにもいかないので、つい、持ち合わせの方法、しらずしらず、自分が教えられたときの方法などで、一日一日過してしまう、こういうことが実際多いのではないでしょうか。」

そして、教師の成長のために応援してくれている。

一つには、ご自分のしてこられたことがどんなに単元学習になっていたかを知って安心し自を持っていただくように。

一つには、一歩前進するために、どこか一角でも切りかえるのには、どのようにしたらよいか、取りつきやすい一角を実際方法とともに見いだしていただくように。

ただ、次のようにも付け加えている。

たいへん心配なことは、単元学習に何か一つの型があるように見えはしないかということである。まず手始めに、こんなふうに行われることをこのように切りかえてはどうでしょうか、という一例をあげたのに過ぎない。例をあげ、実際を書くと、型のように受け取られ、形だけが受け取られやすい心配がある。けれども、こうなのであるから、あとは自分の教室の実際にあたって、めいめいくふうで生かすのだと終ったのでは、いまこの文を読んでいただくかたにとっては、やはり苦しみ、重荷が残ることになるであろう。せっかく、新しい一歩を踏み出そうとしていた熱意もくじけてしまうであろう。やっぱり危険をおかして具体的実際的に密こうとした。それに、もしどこかお役に立つ一節があって実践していかれたら、とてもその手始めにした型めいたことにとじこもってなどいられるものでなく、次次とくふうが生まれ発見できて、「型だ」というような見方は、けっきょく、やってみない間のものであったと気づかれるであろう。

大村の心配と配慮とてびきを私たちは適切に受け止めているだろうか。理解できているだろうか。本当に学び成長しつつあるだろうか。

さあ、鹿児島。

学び合いたい。