ちょっと、文章を書いている。まだ、未発表だけど。
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近年、学校教育においては、論理的な思考力や記述力の育成が重視されている。「書くこと」の指導においても、「自分の考えを書くこと」が求められ、多くの授業で、「まず意見を書きなさい」「結論を明確にしなさい」といった指導が行われている。
しかし実際には、多くの児童生徒が、「書くことがない」「何を書けばよいのか分からない」「自分の意見がない」という状態に直面している。にもかかわらず、思考が十分に成立していない段階で「主張」だけを書くことを求められることで、結局は、教師が提供した型(記述モデル)だけをなぞった文章や、借り物の意見をつなぎ合わせた作文が生まれてしまう場合も少なくない。
ここで改めて考えたいことは、「どのように書くか」以前に、「自分は何を書こうとしているのか」である。そのことは、つまり、人は何に問題意識をもち、それについてどのように考えているか、を言語化することである。問われるべきなのは、「人はどのようにして問いを言葉にし、問いに向き合い、解決したこと(あるいは解決できていないこと)を文章化するか」ということである。
人は、最初から完成された問いをもっているわけではない。また、「問いを立てなさい」と言われたからといって、直ちに問いを立てられるわけでもない。実際には、何かひっかかる、違和感を覚える、うまく説明できない、といった曖昧な感覚に出会い、それを言葉にしようとする中で、徐々に「自分が本当に問いたいこと」へ近づいていくのである。
ただし、すべての児童生徒が、自力で「ひっかかり」に出会えるわけではない。また、自分の内部に生じた「ひっかかり」を、そのまま問いに結びつけられるわけでもない。だからこそ、教師には重要な役割が生じる。その役割とは、「正しい問い」を教えることではない。むしろ、児童生徒が、自ら「ひっかかり」と出会い、それを言語化できるようにすることである。
本研究では、この教師の働きかけを「ささくれ」と呼ぶ。
「ささくれ」とは、思考を強制的に方向づけるものではない。それは、当たり前だと思っていた見方に、小さな揺れを生じさせるものであり、通り過ぎてしまいそうなことがらに立ち止まらせるものである。児童生徒は、その揺れや立ち止まり、つまりひっかかりから「どのようにすればいいのか」「どのようになっているのか」と考え始める。そして、その過程の中で、問いが徐々に立ち上がっていくのである。
本研究は、国語科授業等における実践を通して形成されてきたものである。特に、児童生徒が問いを立て、自己対話を通して問いから中心的主張へ至る過程を観察し、その思考形成過程を理論的に整理したものである。
本稿では、具体的実践事例の網羅的分析を目的とするのではなく、実践を通して見出された思考形成過程を概念的に整理し、「自己対話の五段落作文」を思考形成モデルとして再定義することを目的とする。
ここで確認しておきたいのは、本研究は児童生徒が自らの力で「問いを立てる」ことを否定するものではないということである。むしろ、本稿で明らかにしたいのは、児童生徒が「問いを立てる」ために、どのような過程で「ひっかかり」と出会い、その「ひっかかり」を言葉にしていくのか、そして、そのために教師は、どのように「ささくれ」と出会えるように支えていく必要があるのかを明らかにすることである。
したがって、本研究において重要なのは、「問いを立てる技術」ではない。むしろ、人がどのようにして問いへ近づき、問いを支える自己対話を通して、自分の言葉へ到達していくのかという過程なのである。
言葉を綴るって、心がすうっとなる。神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。

