日本の国語が熊本につながっている

今,熊本大学教育学部附属小学校「夏の実践研修会」に参加している。zoomでの企画。熊本が日本中をつないでいる,

国語科の溝上さんや算数科の大林さんが「見方・考え方」について語ってる。「分かりやすい」。

10万円のものが10万1000円になったという例で,1パーセントという割合で見るか,1000円という量で見るか。「数学的な見方・考え方」なるほど!

社会科,理科,外国語からも「見方・考え方」の説明が続く。そんな中,14時48分,僕はこんなことを思い出しながら考えている。

 国語科の「言葉による見方・考え方」をどう考えるか。その手がかりの一つは語彙。では,実際の教室においては,「言葉による見方・考え方」をはたらかせた結果として,どんな言葉が出てくるのか。

物語作品「ずうっと,ずっと,大すきだよ」でエルフは死んじゃう。悲しいお話だ。このお話を読んで感じたことを「悲しい」という形容詞で表すことはその通りだ。しかし,教師はここで「ほかにありませんか。」と声をかける。そうすると,「かわいそう」「せつない」「なみだがでてきそうで,もうどうにもならなくて,すぐにエルフのそばに行ってあげたくなる」などの声が出てくる。

「せつない」という言葉をつかった児童の「考えるという行為」はどのようなものだったのか。

「悲しい」と言った児童と,「切ない」と言った児童が「結果として表現した言葉」は異なる。では,その言葉にたどり着くまでの思考行為はどうだったのか。

その議論抜きで「言葉による見方・考え方」を語ることはできないだろう。作家論や作品論ではなく,「子ども論」である。「せつない」と語った児童が秀でているというわけではなく,といって「悲しい」が浅い思考の結果というわけでもない。

だけど,「せつない」のような「子どもらしくない言葉」や「つかいなれない言葉」,「洒落た言葉」が表舞台に取り上げられることは多い。

一方で,「なみだがでてきそうで,もうどうにもならなくて,すぐにエルフのそばに行ってあげたくなる」というような表現も教師たちに歓迎される。「子どもっぽい表現」も表舞台に取り上げられる傾向がある。

となると「悲しい」という形容詞による表現はどうなるか。

確かに,私たち教師は,安易に便利な言葉をつかって満足しているような姿や,手もちの言葉だけで表現を終えてしまう姿では満足しない。もっと考えてほしいと思ってしまう。だけど,子どもの頭の中をのぞいて見ることができない限り,考えなかったから「悲しい」なのか,考え抜いたから「悲しい」なのかは分からない。

「言葉による見方・考え方」を存分にはたらかせたなら「切ない」にたどり着くのだろうか。僕は,むしろ,「言葉による見方・考え方」をはたらかせ,これまでの学習をつないだなら,「悲しい」にたどり着くのではないかと思いはじめてる。表象を切り取り,それを抽象化したからこそ「悲しい」という代表的な(馴染みのある)形容詞にたどり着いてしまうように思う。

そう考えると,教師は,「悲しい」と「切ない」という,子どもから発せられた言葉の違いを理解の比較とするのではなく,「悲しい」にたどり着いた思考,「切ない」にたどり着いた思考の軌跡を言語化し,作品の合理的な文脈理解と重ねてそのように理解した子どもの思考を比較しなければならないだろう。もちろん,この「比較」とは,「評価」のことである。新学習指導要領の教科評価観には「言葉による見方・考え方」をどのようにはたらかせているかの検討が必要だろう。

と,zoomの画面を見ながら,僕はこんなことを綴っている。画面では中尾さんのコーディネートで各教科が絡み合って考えを深めている。中尾さんの背にある黒板に整理されたパネルも見事である(ちょっと準備万端すぎるかなという印象も感じつつ)。

中尾さんが「言語能力」という言葉をつかってまとめに入った。そして石井英真さん登場!のはず。

少し遅れて石井氏登場。いい話を聞かせてもらった。

それにしても,大いなる熱さを感じるシンポジウムだった。自分の教科の専門性の高い話を一般的な言語に置き換えて説明しようとされている姿を尊く思った。私たちはとかく「○○科研究」という肩書きを使って,自身の専門性に他を導こうとしがちだけど,私たちのいちばんの専門性は「子ども研究」であるはず。その矜持を忘れてはいけない。そんなことをふと思い出させてくれたこのシンポジウムに感謝している。とりわけ大林先生の研究観の組み立て方,その表現方法の巧みさの伸張に目を見張った(数年前からお話しさせていただくことがあったので,つい,懐かしさのあまり思い出してしまった)。

子ども研究を第一に,教室研究を第二に,そしてその基盤となる教科研究を丁寧に進めている熊本大学教育学部附属小学校,2月の研究発表会を楽しみにしている。明日,すぐには役立たないかもしれないけれど,明後日にきっと役立つ熊大附小の研究に大いに魅了されてしまっている。

そうそう,日本語で書いてある学習指導要領なのだから,必要以上に「難しいもの」と位置づけなくてもいいと思う。読めば分かる。「平易平明に編集してある学習指導要領」なのだからあまり多義多様に解釈しないほうがいいと思う。確かに心に残る名文ではないかもしれないが,学習指導要領を素直に解釈し,教室の事実に重ねて考えていくことが大切だろう。すべての子どもの幸せを実現する国語科であるためには,「学習指導要領と子どもと教室」を重ねて考えることが必要だ。

さて,この余韻の中で夕方の散歩♪

考え抜いたからこそ「悲しい」と口にする子どもが増えますように。「悲しい」という言葉をうんと見つめたから「悲しい」と伝えたんだし,だから「悲しくない」ことを愛する子どもがこの世界にあふれますように。