どこまでも赤く

大学への道。彼岸花が咲き出した。まるで暦を見て確かめているように,毎年,同じ頃に咲き始める。

彼岸花といえば「ごんぎつね」と言わなきゃいけないとでも思っていたんだろうか。かつては,国語教師として彼岸花は作品研究を忘れさせないための「赤」だったかもしれない。小学校の教師をしていたときは,図画工作科の線描の材料としても彼岸花を使っていた。この赤は教室で大活躍していた。

今では,「秋になったなあ」「今夜はあたたかいものでお湯割りだなあ」を気づかせる赤。
もうあれから一年かとつぶやかせる赤。
鹿児島は霧島横川の彼岸花も咲いているだろうか。京都の美山平屋のあぜ道は赤で縁取られているんだろうな。安曇野道祖神にはコスモスと彼岸花。と,旅愁の赤。

きょう,僕は,嬉野の赤に今年の9月を感じている。もう100日もすれば降誕祭。一年はいつものようにはやい。

そういえば,2002年9月に学級通信に綴ったものにこんな文章がある。小学校3年生の担任をしていた頃の作品だ。

どこまでも赤く
達富 洋二
教室に彼岸花が届けられました。心あたたまる話や悲しい話、艶やかな話、種々のエピソードをもつ花ですが、突然の「赤」に戸惑いながらも、教室は一気に秋色に染まりました。◆「どこまでも 赤いぞ赤いぞ 彼岸花」これは子どもの一句。外からは運動会の練習の声が聞こえてきます。心なしか比叡山が紫色に見えます。◆素肌に触れる机もひんやりと心地よく、窓を開ける前、どんな風が入ってくるかが楽しみです。手の届きそうなところを舞う季節外れの蝶。晩夏を惜しむような名残りの青い空。◆二〇分ほどボールを追いかけて走ってもシャツの色が変わるほどにはならなくなりました。出かけに着てきた厚手の服もそんなに気にならないようです。◆放課後になっても水筒のお茶がなくならない子どもが「一杯どう?」と友だちにすすめています。「じゃあ一杯だけ。」「そんなこと言わんともう一杯。」◆少し短くなった久しぶりの長袖をちょいと腕まくりして机に向かう三年生。前屈みの頭の向こうで赤い花弁がつつつと揺れていました。

神様,きょうも一日をありがとうございます。