授業のなかで指導力をみがく

きょうは天草で授業研究。昨日に続き、本当に楽しみにしていた。

このあと、18時30分から授業リフレクションがあるけれど、その前に、ちょっと振り返っておこう。

はっきりと見えたのは、たった11人なのに、学びのスピードがまったく違うということ。学びのペースも同じでないということ。学びの立ち上がりは予想できないということ。

こんなあたりまえのことをまざまざと見せつけられた。数えられないくらいの教室を訪ねてきたけれど、昨日ときょうは記念日になるほどの衝撃だ。

この「信じられないほどの〈さまざまな学びの事実〉」は、今にはじまったことではない。平成の頃にも昭和の子どもにも存在していたはず。それが見えていなかったのか、見ていなかったのか、見ようとしていなかったのか、全部わかっていたのに言葉にしてこなかったのか。

この事実を認めた限り、僕たちは止まってはいられない。やはり、一人一人の〈さまざまな学びの事実〉に向き合い、〈さまざまな案内〉をする力をつけなければならない。

僕は授業を見ながら、五島列島で教員をしていたときのこと、平成11年の奇跡(と勝手に僕が読んでいる僕のターニングポイント)のこと、小中学校の教員を辞めたときのこと、すべての節目に戻って、そのときの僕と語り合いたいと思った。

そのときの僕に「もっと求めなさい」と、声をかけてくれるのは、今の僕しかいない。でも、そんなこと、できるわけない。だから、僕はいつの時でも謙遜のうちに生きていきたい。

神様、きょうという学びをありがとうございました。天草に縁をいただき、きょうを迎え、きょうを生きられたこと、ありがとうございます。