きょうは年休をとった。いちにち心と頭と身体をやすめた。ひなたぼっこ、たき火、椎茸にビール。
と、いつのまにか考えていた。
「いいね。」は評価ことばなのか。
というのは、先日、大学2年生のひとりが中学校で授業をした。僕はほんとうに感激した。二十歳の頃の僕なんか、比べものにならない。
いや、子どもへの話しかけ方は僕のほうが上手だったかもしれない。板書の構造は僕のほうが上手だったかもしれない。机間指導の方法も僕のほうが上手だったかもしれない。
しかし、しかしだ。
まったくちがう安心感があった。いや、安定感といったほうがいい。
完全にまいった。この学生、おそるべし、だ。
授業がはじまってから15分。僕はこのおそるべし安定感はなぜ生まれるのかを観察した。観察し続けた。声を聞き、まなざしを幾重にも届け、膝を折った。
そして、わかった。声だ。この声。「いいね。」という声。「いいね、いいね。」の声。「いいねいいね。」の声。
「いいね。」はなんなんだ。評価ことばか。
「いいよ。」は評価だ。「その答えでいいよ。」は評価だ。いや、ちがうこともある。かくれんぼのときの「もういいかい?」「もういいよ。」は評価じゃない。相手に届いてもらわなきゃならない叫びであるはずだ。だって、「もういいよ。」が届かなきゃ、鬼さんは探しに来てくれないんだから。「もっと食べる?」「もういいよ。」はどうだ。もちろん評価じゃない。「もうお腹いっぱいだから、もういいよ。」これは、「もういらない。」という辞退の申し出。
「いいね。」はなんだ。あの教室に響き続けた「いいね。」は評価なんかじゃない。「あしたはがんばるんだよ、いいね。」でもない。これは確認。「その洋服、いいね。」でもないんだ。これは評価。この授業の「いいね。」はなんなんだ。
本人は評価だと言うだろう。だけど、観察していた僕はそうとは思わない。
彼女の「いいね。」は、「さあ、学びのはじまりはじまり。」「そう、もっともっとやろう。」「うん、聞いているよ、ありがとう。」なんだ。
「いいね。」は、「先生はここにいるよ!」「先生はいつも一緒にいるよ!」「先生は待っていたよ!」の安心なのかもしれない。
年休の日は、後味のよい振り返りができるから好きだ。
神様、きょうも一日をありがとうございます。降誕祭まであと2週間。この待つ時間が僕は大好きなんです。子どもの声を待つように。