南東の杯

友の親父が逝ってしまったらしい。

50を過ぎてもなお少年の瞳からは涙の雫がこぼれていることだろう。奴が悲しみのうちにいると思うと、亡き父にも増して奴が不憫だ。

常に人のことを思い、和を重んじることに法った奴の生きようは、奴の父そのままなんだろう。想像に容易い。

父の名前を忘れる奴などいない。人の名前は自分だけのものではなく、つながった者のためでもある。先の人は後の者の名前を知る術もない。後の者は先の者の名前を心に留めないはずがない。

奴の父の名前は、これからの奴の生きる道標になる。奴の父の名前は、これからの奴の背中を押す。奴の父の名前は、これからの奴の家族を支える礎となる。

奴の父の名前は、これから先も確かにある。

奴も父だ。僕も父だ。父はどうあるべきか。決して越せない父の存在を感じる夜だ。

常に道に法って生きる。その道とは何か。奴は道を問いながらの道を生きるだろう。そして、そこに道は確かにある。道は道をつくる。

伊佐はどっちだ。この小家からは南東のはず、今夜は南東の星に弔いの杯を捧げることにする。父を語りながらの杯。

神様、きょうも一日をありがとうございます。愚弟がゆっくりと別れに浸れますように。いつも急ぎ過ぎの奴ですが、ここばかりは時間をかけて道を調えられますように。

そして、ゆっくりとした別れのうちに届いた言葉。「父と共にこれからの人生を生きるんだという思いを強くすることでした。常に周囲に心配りをした父、文句をこぼすことなく黙々と作業した父……。父を弔いつつ、残された母を気遣いながら、私らしく生きていこうと思います。」

父と語り合った奴がやっぱり不憫だ。弔いの酒ならいつでも付き合うぞ。