研究はだれの都合か

次々と講演会や研修会が取りやめになっている。先ほどもある校長先生からメール。「本当に申し訳ございません。おゆるしください。」との言葉に胸がいたくなる。校長先生のせいではありませんよ、って、そんなことあたりまえ。

やろうと思えばできるのだろうが、やらないという決断。これって、悲しい。

昨日もリモート、一昨日もリモート。画面越しの先生たちの姿は懐かしくもあり頼もしくもある。同時に「つかれていませんか」という言葉が陳腐に思えるほどに疲弊されているのが伝わってくる。

社会が元気になったら取り戻そう!と言っているが、本当はそうじゃない。今は休憩時間ではない。今も研究は続いている。子どもが学校にいようがいまいが、研究は続いている。集まることができてもできなくても、研究は続けなければならない。

明日に予定していた鹿児島での「僕の授業」も延期。単元びらきと単元のまとめをさせてもらう予定だった。

だけど、いいこと思いついた!完全リモート授業で、単元まるごとをさせてもらうっていうアイディア。

教室に一台の大きな画面の達富先生ではなく、一人一人が持つ端末に僕が映る。そして、一人一人もそれぞれの画面に。

全員が教室にいるのに「一人学習」。じゃあ、「二人学習」はどうするか、「私たち学習」はどうするか。

それを考えるのがきょうからの楽しみだ。

神さま、新しい学びの場をありがとうございます。今は、決して悲観的な時間ではなく、ふだん忘れかけていた絆を思い出し、取り戻す時間なのかもしれません。