何を学ぶのか,何を学んだのか

きょうは佐賀の勉強会。を,長崎で開催。

リモートでつないだり,マスク越しに議論したり。不自由だけど,そこに学びがあるのは確か。

今回は,達富企画で「筆で書こう!演習」も取り入れた。

ちょっと緊張しながらの書字。気持ちいい。

どうやら,僕の筆は不評のようだ。穂先の柔らかさが不自由だそうだ。

マスクも筆も不自由。だけど,その不自由を創造的なものに変えることができるのが人。

そう言えば,昼食の焼き場をこしらえるとき,切り炭に火をおこすのにバーナーを多用する若者に辟易した。前回も教えたはずだ,と口走ってしまった。楽をし,考えることなしに,バーナーの先を炭につっこんで火をおこしたいならガスコンロを使えばいい。ここに来なくても安くて食べ放題できる店に行けばいい。

食わせてもらう,遊んでもらう,ぜんぶやってもらう。そうでなければ不自由だと愚痴をこぼす。

そうではなく,自分で食べる場を調える。自然のふところに抱きかかえられて遊ぶ。責任と工夫の中で創造的に生きる。それが大人であるはずだ。そんな大人の姿を見て子どもは育つ。

火がとぼしくて,風にいたずらされて,思っていたより時間がかかった帆立の貝焼き。

じゃあ,次はどうすればいいか。

かんたんなこと。風よけを立てる。その前に炭の組み方を変える。流木を鋸と鉈で調える。火がこっちにまとまってくるように空気を操る。そうするだけで,自然はぐっと僕たちにやさしく近づいてくれる。

授業力をみがくのは参考書を読むだけではない。直接的な指導方法について語り合うだけではない。学び続けようとする感受性を高めようとすることなしに授業力の向上など実現するはずない。

僕は自然の中に学んだことを教室に散りばめている。1時間も風の音を聴いていれば,受け持ちの子どもにぴったりの風景が見つかる。自然の風景の数は子どもの数よりうんと多い。そうか,そうなんだ。

そんなとき,本当に僕が担任でよかったんだろうか,って小さくなる。僕でよかったでしょって,そんなことは絶対に言えないし言わないけれど,縁あって万里の川を越えて出会った偶然に感謝しているから,僕はもっともっとその子どもの景色を探し続けなければいけないって自分を見つめる。

休みの日に学び合う仲間が集うこと。この尊い習慣を,もっともっと高めたい。学び慣れないように,学んでいるつもりにならないように,教師として生きていることを見失わないために,集うことは確かめ合うこと。集うことはみんなが高まること。それは他と離れて群れることではなく,誰もが近づき合うこと。いつもそばに感じ,声を聞き合うこと。

さあ,10月の指月会。その前の9月23日。佐賀じゃない地域からも集まりませんか。県内,そんな時代じゃない。