大阪まいどおおきに空港

大阪に来ている。

この学校とはもう5年ほどになる。みんな仲良しになれた(と僕はおもってる)。

きょうのお土産は学校の畑の「鳥飼茄子」と仲間たちの熱さ。

きょうの研修会での声,

「評価のお話大変興味深くお聞きしました。そして更に悩むことにもなりました。評価の概念の違いに苦しみながら達富先生のお話をお聞きしていました。評価規準表を先に配ることによって、評価を気にしながら学習する子どもにはしたくないと思いました。やはり学習自体、その単元の教材の特性自体が楽しいと思える学習にしたいと言う強い思いがあります。ただ、その一方で児童の実態には合っていると考えます。その辺りを自分自身の中でどのように折り合いをつけるか今後の自分自身の研究課題だと確認できました。」

僕はこのような声を聞けることに感謝している。だって,これは僕の声でもあるからだ。

「評価を気にしながら学習する子どもにはしたくない」。その通りだ。
だからこそ,評価規準は「がんばりどころ」と考えてはどうだろうか。

「学習自体,その単元の教材の特性自体が楽しいと思える学習にしたい」。その通りだ。
だからこそ,「学びがいのある学習との出会い,読む値打ちが染みこむ作品との出会い」にもっと丁寧に向き合わなくっちゃいけないんじゃないだろうか。

僕は,かつて,「学習自体,その単元の教材の特性自体が楽しいと思っている」子どもにBの評価をつけることができなかった。「こんなに授業を楽しみにしているし,あんなに一生懸命やりつづけたんですよ。それなのにやっぱりだめなんですね。」って,あんなに悲しかったクリスマス前の個人懇談はなかった。

そうなんだ。だからこそ「単元びらき」が大事なんだ。

単元びらきは「作品(題材)との出会い」であり,「学びとの出会い」である。心の底からわくわくする物語,好奇心がかり立てられる説明文,気になってしかたがない話し合いの話題,すぐにでも書き出せそうな作文の材料。教科書をちゃんと扱えば「作品(題材)との出会い」は間違いない。

だけど,教科書をきちんと理解できていない僕はおそまつな「学びとの出会い」にしかならなかった。わくわくする物語なのに,力がついたかどうか分からない学習にしてしまったことなど数え切れない。知的好奇心から始まった説明文の学習があくびと未完成の言語活動でしめくくられたとき,間違いなく失敗していると身体が冷たくなった。

評価規準表は子どもを量り売りするための一覧ではない。評価規準表を作っておくと,僕みたいに単元の途中で道を見失う者であっても,ちゃんとまっすぐの道をたどることができるためのもの。ついつい,これもあれもと教師の都合と教師の興味によって脱線する発問群に包み込まれることなく,子どもの学びの見通しを大事にできるもの。

そんなことじゃないかなあ。

ここに来ると,いつもいつも,若かった頃の自分に会える。若かった達富がたくさんいるこの小学校は,恥ずかしいくらい正直で,自慢できるくらい正直だ。

神さま,きょうも一日ありがとうございます。

たこ焼き食べて帰ります。