授業を楽しむ

鹿児島の中学校で授業をする機会を得た。僕の授業力なんかすっかり錆びついてしまっているのに生徒の前に立てることになった。

単元は,甲斐利恵子先生の「ルロイ修道士への弔辞」を大いに参考にさせてもらっての「達富版 ルロイ修道士への弔辞」。

今回の僕の挑戦は,単元びらきの工夫。ちょうど今,プラハの日本人学校で祥平がとんでもなく壮大な単元に挑んでいることに触発されたのかもしれない。がんばろう,兄弟姉妹!って感じだ。

さて,単元びらきの工夫とは。

単元には大きく二つの出会いがある。一つは作品や題材,言語活動との出会い。もう一つは学びとの出会いだ。「もの」との出会いと「こと」との出会いと言ってもいい。言語活動は「もの・こと」の両面をもっている。「どんなものをつくるのか」と「どんなことをするのか」である。

各地で授業を見せてもらっていると,この二つの出会いが切り離されていると感じることが少なくない。どちらの出会いも大切だ。

さて,きょう。

僕は準備してきた音読で教室を動かしたり立ち止まらせたりしようと考えていた。

音読百遍。清原先生から習ったことだ。

ルロイ修道士の「今の思い」と「回想」が織りなすこの小説は,とやかく言うより声で感じるのがいちばんだ。その折々に今と回想を区別させる。

言語活動に活用できそうな部分を選ぶことは先ほどの区別の上にある。

選んだエピソードをどのように表すかは語彙学習の上にある。

語彙は学びとの出会いを深いところに連れて行く。

どのように読むか。

感動を声にするというよりは,書かれた小説を動き出させ,立体化させるという感じ。僕の感動を押し付けず,生徒の感動を無理に引っ張り過ぎず,小説のよさと出会うことで自分の読解に出会い,学びに出会うことができる。

もちろん,途中で学習課題とつなぐ時間をはさみながら。ここは教師の語りの力が必要。

そのためにも、素手で読ませない。読みのかまえをもって作品に出会う。国語の学習での読むことは,土日の読書とは違う。途中で読みたくなくなってしまっては大変なことだ。いや,読みたくなくなっても読み切らなければならない。読み切るためにはいい加減に読み始めてはいけない。読みのかまえをおでこのあたりに集めて一気に読む。読ませる。聞かせる。

音読百遍。必ずできる。