僕は言語活動に大いなる魅力を感じている。
そもそも、学習は誰にでもできるものでなければならない。教室の学習は一部の子どもだけのものであってはいけない。そういう意味では、言語活動は誰にでも取り掛かれるものでなければならないのである。
言語活動経験があるからできるとかないからできないとか、それは間違っている。
教師の意図を理解できたからできるけれど手順が複雑だからできないというのは教師の都合である。
入り口は誰にも分かりやすく、その後の進め方は一人一人がデザインできるものでなければならない。
どれくらいその活動(行為)に夢中になれるか。それは教室内で相対的に見るものではない。個人が確実に活動に浸っていることだけが正解なのである。
妙に冷めた子どもがいてはいけない、と言って、周囲が見えなくなるほど前のめりになる子どもがいるのも好ましくない。浸るというのは、ある種、自分に冷静になることが必要だからである。
子どもの日、すべての子どもの学びを考えていると、こんなことを綴りたくなった。
神さま、今日も一日をありがとうございます。