電車に乗って考えたこと

東横線に乗っている。

いつもは革の鞄をさげているけれど、今回の旅は紺色のバッグにした。久しぶりの鞄をなでながら、いくつもあるチャックをあけて数年来、入れっぱなしにしていた美味しい店の箸袋を懐かしく思ったり、折りたたんだ一万円札を見つけて得した気分になったりしている。

と、チャックというのかファスナーというのかジッパーなのか、気になった。あれこれ用例を考えているうちに学大前。この鞄の場合はチャックと呼ぶのがふさわしいと結論づけたときには自由が丘に着いていた。

それにしても、このチャックは便利だ。引くだけで開いたり閉まったりできる。

「誰が作ったんだろう。」

こんなことを調べるのはわけないことだ。スマートフォンがあればほんの5秒。

「ウィットコム・L・ジャドソンら」とのこと。一発、解決!

しかし、僕は紺色のチャックをさわりながら、ウィットコム・L・ジャドソンという名前を知りたかったわけではない。「誰が作ったんだろう。」という問いには
・どうやって作ったんだろう。
・どんなきっかけで作りたくなったんだろう。
・どんな失敗があったんだろう。
・初期のチャックは今のスタイルと同じだったのか。
・材質はどんなものでもできるのか。
・チャックの発明まではどのような方法で対処していたのか。
・日本ではどうだったのか。
・日本人にこの発想はあったのか。
・これからのチャックはどのように発展していくのか。

もろもろ、もっといろんな問いが頭の中に湧き上がる。

それを一言で言い表せば「誰が作ったんだろう」になっただけ。

ということは、子どもの《問い》も同じじゃないか。「そう言っている」だけで、「それだけじゃない」んじゃないだろうか。

ここ数年、気になっていたことが動き出した。教室の《問い》は短すぎる。《問い》にはもっとストーリーがあっていい。文脈があっていい。ドラマがあるはずだ。

《問い》、きょう、僕は東横線に揺られて《問い》を頭の上の方に移動させることができた。と、日記には書いておこう。

おっと、横浜に着いた。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。