授業にかかわるすべてのものは子どもから出て、子どもによって保たれ、子どもに向かっている。
授業にかかわるすべてのことは子どもから出て、子どもによって保たれ、子どもに向かっている。
だから大事なことは子どもの息づかいを尊び、愛し、ていねいに観察すること。
一段落のあと、「これからはもっと子どもの側に立ってがんばります」。こんなことは言わない。幼稚な言い訳にすぎない。
誰かに問われたら、即答。そんなことしない。たずねてくださっている方に失礼だ。理解には時間が必要だ。そのことを表現するにはもっと時間が必要だ。
教えてくださった方のことばをコピーして、繰り返すなんてあり得ない。言葉を真似したって勉強にもなっていない。自分の言葉に置き換えられない限り、理解したことにはならない。
自分の言葉で子どもを語れるようになりなさい。
自分の表象の切り取り方で子どもを見るようになりなさい。
だから、子どもを尊びなさい。
そして、子どもと同じ大地を一緒に歩きなさい。
学んでいるただ中の子どもの「本当」は見えない。だから、学んでいる子どもと心で対話しながら子どもの声を聞くしかない。
見えている姿と、心で対話しているからこそ見える姿と、どちらが尊いか。
聞こえている声と、心で対話しているからこそ聞こえる声と、どちらが尊いか。
子どもと心で対話するということは、謙虚に子どもと対峙するということ。
子どもと心で対話するということは、子どもを愛するということ。
若い頃、授業の記録の取り方が分からなかった。
だからいいこと思いついた。
授業を見るときはいつも倉澤栄吉先生の斜め真後ろに立つことにした。そして、授業を聞きながら、倉澤先生がメモする真似をした。配られた学習指導案の同じ場所に同じ言葉を書くことにした。書く言葉も、下線をひく部分も、丸く囲むところも一緒。授業後、倉澤先生のとまったく同じ学習指導案をもった僕は、倉澤先生と一緒に授業を見たような気分に充実を感じていた。その後の倉澤先生の講演は、いくつもの「なるほど」があった。こうして授業を言語化することを鍛えた。もちろんあくまでも「贋作・倉澤流」。
若い頃、授業の見方も分からなかった。
だから、またいいことを思いついた。
授業を見るときにはいつも大村はま先生の真後ろに立つことにした。そして、少し腰をかがめて目の高さをそろえるようにして、大村先生の見方を真似した。右に向けば右を向くことにした。板書を見るときにはそうした。授業者を追いかけるときもそのようにした。歩くことも、立ち止まることも、生徒のノートをのぞき込むことも一緒。大村先生の授業観察の方法をまねした僕は、大村先生と一緒に同じ授業の事実を見たにもかかわらず、観察の文脈を調えることはできていなかった。だけど、こうして、授業を映像化することを鍛えた。もちろんあくまでも「贋作・大村流」。
お二人が天に召されてからは、そんなこともできず、真似もできず、話も聞けず、自分で学ぶしかない。そこからはじまった僕の談話研究。子ども研究。とにかくはじめた。
授業の事実を見る。授業の物語を作る。もしかすると、今の僕のもっとも得意なことなこと。心ある後進に伝えておかなければならないことかもしれない。
そんなおこがましいことを言うのも思うのもよそう。誰も伝えてほしいなんて思っていないし、僕も伝えたいわけではない。
さあ、あたらしい一週間がはじまる。明日から、3年生の教育実習だ。明後日からは旅がはじまる。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。九州に来て12年。後期は研究室の模様がえをがんばります。カーテンは何色にしようかな。教育書はとりあえず段ボールに入れた。