子どもが学び浸っている姿がここにある。
まずは、この一枚。この一枚の写真にこの教室の充実が凝縮されている。
学び合いとはこういう姿が連続することだ。誰もが誰をも侮っていない。誰もがみんなを大事にしている。国語教室はここからはじまる。そんな授業がこの学校にはある。
では、45分間、ずっと動き回り、話し合っているのか。
それは違う。
授業びらきは楽しさのなかに静けさがあった。
先生が何をおっしゃるか待つ子どもがいた。
それは受け身ではない。
先生が何をおっしゃるか、子どもは知っている。分かっている。期待している。
先生がおっしゃることを確かめながら、子どもは自分の45分の見通しを立てている。
45分のはじめは、こんな姿からはじまった。凜とした空気。しぜんと両手が膝の上でそろう。
この姿は、やらされているのはない。
学びを待っているのだ。
次の学びを心待ちにしている。
もちろん聞く姿勢にはいろいろある。
子どもによってそれぞれだ。
だけど、この教室は誰もが自分を小さく見ていない。
そして、板書の音読に移る。
指斉読。
久々だ。
さらに凜とした空気がただよう。
凜とした空気が次の学びを熟成させようとしている。
さあ、言語活動。
もちろん、動き出すには時間が必要だ。
その時間は子どもによって違う。
それを、「はい、どうぞ」で片付けない教師がここにいる。
動き出すまでの時間は優劣ではない。
そこに寄り添うことは、手のかかる指導でもない。
子どもを待つ。
子どもの学びの立ち上がりを待つ。
ただそれだけのことだ。
そのことがとても大事なことを知っている教師だけが待てる。びきすることができる。
言語活動だけではない。
学び合いにもてびきは必要だ。
さっと入って、きちんとてびきし、そうっと離れる。
教師とはそういうもんだ。
だから、
子どもが動く。
子どもが学ぶ。
再び、この一枚。
この姿はこの教室の日常だ。
この教室には本物がある。
この教室は学びに満ちている。
いや。この学級だけではない。
この学校はそれが当たり前になっている。
当たり前の日常の風景になっている。
とにかくしゃがんで声を聞く教師。とにかく子どもを「主語」に語る教師。とにかく、いい顔している教師。
研究協議はみんな語る。担任だけじゃない。研修部だけじゃない。専科も養護教諭もみんなみんな語る。その語りが、熱くて深くて胸の奥の方まで染みこむ。ずっと語っていたくなる。ずっと聞いていたくなる。
きょうの二人の教師の教室。
僕はうんうんとうなずくことしかなかったし、それがとてもうれしかった。もう一度、朝に戻ればいいのに、もう一回、はじめから体験したいって、本気で思ってしまう授業研究。僕がいちばん好きな時間だ。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。美しくも力強い時間を共有できました。