小さな思い

声をかけ合うこと。これが2024年のメインテーマ。「かけ合う」んだから、僕が声をかけるだけではなく、僕も声をかけてもらえるようにならなければならない。

師、大村はまの言葉。
「はっきりと言ってもらいやすい人になりなさい。」

その通り、表面的な美辞麗句などまったく不要。
とりつくろうようなほめ言葉は無用。
下手な授業は「下手」と言われるほうが勉強になる。つまらない文章は「つまらなかった」と言ってもらうからこそ次の文章がみがかれる。講演や授業のときに居眠りされるのは僕の技量が足りないだけだ。砂金を見つけるようになんとか「まし」なところを見つけてほめてもらうなんて、何よりもみじめだ。

そんなこともあり、僕は「先生」と呼ばれるよりは「兄さん」や「兄」「兄貴」と呼ばれるようになりたい。そして一緒に声をかけ合って育ちたい。上方の芸人たちが生涯ついてきたい長上を「兄さん」と呼ぶのはまさにそういう思いなんだろう。僕のゼミ生やかつて担任をした学級の教え子たちが「先生」としか呼べないのは分かるけれど、日常の仲間からの「先生」はなんとなく距離を感じてしまう。

僕は誰をも「先生」と呼ばないようにしている。それを無礼という人も少なくない。「先生」と呼ばれたい人もいるだろうから、それはそれでいいんだけれど、僕は一人の「達富洋二」として声をかけてほしいし、「達富洋二」として声をかけている。だから最大の感謝と敬意を込めて「さん」と呼んでいる。「さん」づけで声をかけ合う仲で居られることで、つながりを確かめ合える。呼び方を改めることはぎこちなさを感じるからタイミングが大事。2023年で「先生」をやめよう。

昨日、今日と、声をかけ、声をかけてもらう心地よさに感じ入っている。今年は、今年こそは、これまで知り合った方々に会いに行こうと思っている。退職まであとわずか。あと何回、語り合えるか、酌み交わせるか。声をかけ、声をかけてもらえることを日常のあたりまえと考えるのではなく、毎日、毎回を特別なもの、これが最後かもしれない、と愛おしく感じたい。

さて、きょうの午後は、2024年はじめての外食べ。お気に入りの品々を溶岩板で焼き、薩摩黒じょかで焼酎を温めて大満足。

が、残念なできごと。実は昨年の春から4本のひびが大きくなりはじめ心配していた。今夕、片付けのときにきれいに5つに割れてしまった。まるで梅の花がひらいたように。

やれやれ。さあ、気を取り直して2024年!

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。