教えることの流れ

授業を進めることを「流す」と言う人がいる。「めあてを書いて、何人かあてて、こうやって本時は流します」というように。

授業を流してしまっては、子どもには何も残らない。流すなんてとんでもないことだ。

しかし、授業には「流れ」が必要である。しかもその流れは子ども一人一人のオリジナルである。

個別最適化とは、まさに一人一人の流れを大事にするということ。一人一人の流れが集まりぶつかりともに大きくなり、育った流れがまたそれぞれに新しい筋となり流れ続ける、この過程が協働的である。

さあ、吉田北中学校、2年。毎年1回、ここで授業をさせてもらっている。

僕はこの10人の生徒の学びの流れを心地よく感じながらも、ややもするとその勢いに押されかけ、そしてさらに勢いをと思い、目の前にかかった枝木を取り除くことや、ここはというところでは流れを緩やかにと少しばかり大きめの石を置くこと瞬時の判断で行いながら進めた。

この授業。
そもそもは少し前に届いた生徒からの手紙をもとに単元を組み立てた。500字にまとめられた10枚の自己紹介の手紙と、9枚の「達富先生にたずねたい向田邦子の読み方」。

それらを何度も読み、僕の黒い手帖に写し、そして線を引く。色をつけて丸印をつけて、矢印でつなぐ。

まるで、読解を楽しんでいるようだ。だから、教室に入ったらみんな顔なじみの気がする。

まるくなって座ろうと提案。

どの生徒も僕から目を離さない。僕も声を届ける。うなずくのが上手い。本を開けるタイミングは絶妙。手を挙げてたずねる姿に熱くなる。

手応えのある授業とはどんなものだろうと考えながらの帰路。きょうの授業はどうだったのだろうと窓を見る。

桜島が「これでいいのだ」って言ってくれているよう。そう、等身大の授業がいちばんいいのだ。さあ、安心したら急に腹がへった。

授業のあとの昼は美味い。

「教えること」の充実があればなお美味い。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。吉田北の10名のいのち、ありがとう。