鳥栖の朝焼け
きょうを祝福してくれている。
だからこそ、きょうの60分間はかなり本気だった。「教師の都合をやめよう」を伝えたかったから。
「教師の都合」を、と言う先生ほど自分の都合で授業をしている。それはもはや「授業」とは言えない。
時間配分ひとつ見ても教師の都合だ。導入8分間は何を根拠にして決められたのだろうか。先生が導入したつもりでも、子どもの学びが立ち上がらなければそれは空振りでしかない。なのに、先生は「では、」を繰り返し、どんどんと流す。
まさに「流す」である。
子どもの学習に流れを作ることは大事なことである。だけど、子どもの学びの機会を流してはいけない。
めあても同様。教師の都合による教師のためのめあては子どもの学びに役立つことはない。キャッチフレーズはめあてではない。問題もめあてではない。キーワードも目次的項目ももってのほか。
まさに「形骸化」である。「書いただけ」にしか見えない。
学級に示すめあてとは、そのめあてを自分のこととしてとらえることができ、そこから《私の問い》を立てることができるものでなければならない。めあては、黒板に書いておくだけの「教えましたよ」というアリバイ的板書ではない。
そして、子どもの興味・関心。子どもの内側に自然にできた興味や関心だけでは授業にならない。思考力、判断力、表現力等をはたらかせるための興味や関心は教師が作り、育てなきゃ学びは動き出さない。
「子どもの興味・関心に合わせるのが難しくって」なんて、何の言い訳にもなりはしない。先生の白旗宣言ほどみっともないものはない。
まさに「教えていない」事実である。
だからこそ、「一緒にやりましょう、鳥栖の子どもの力を育てましょう。生涯、学び続けるいのちのために。」の熱いメッセージを残してきた。かなり本気で。
教育長の確かで熱いメッセージも
教員の楽しく熱い指導も
なにより、生徒の手応えのある熱い学びも
全部、toi toi toi、問い・問い・問い!ここに「教師の都合」など、ひとつもない。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。
本当に楽しかった。
さあ、もうすぐクリスマス!