ひとつのグループに、そして1人の子どもにくっついて授業に参加した。
《問い》は立てるんじゃなくて、《問い》が立つような授業にすることが大事なんです。って、先日、それとなく僕に言ってきた人がいた。
即答、「ちがう」と僕。
《問い》が立つ授業なんてあたりまえすぎるか、謎めきすぎている。そんなんじゃない。仮に《問い》が立ったとしても、それをもっと値打ちのある愛着のある問いに仕立て直したい。
ともすると流してしまいそうな場面であっても《問い》を立てることでその場面に自分が存在し、課題を見つけ、課題に向き合うことで自分が動き出す。《問い》は降ってわいた謎ではない。《問い》は自分が生み出すものである。
《問い》を立てる学びとは、すなわち自分を主体化する学びである。
では、どんな子どもで《問い》を立てることができるのか。即答、「できる」。
ただし、立てることに慣れるまでは誰かの寄り添いが必要。それは親であり、兄弟であり、近所のおじさんであり、、、
いちばん身近な存在は教師であり仲間である。
それなのに寄り添わない教師が多すぎる。「子どもに《問い》を立てることは難しいから」などと平気で言う。だったらこのクラスの子どもの事実は何なんだ。「《問い》を立てるなんて、それは応用編。まずは授業の基礎である発問に答えることから。」正解さがしを否定しないけれどそれだけでいいはずがない。
冨士松諒。この男はとことん寄り添う、付き合う、ゆずらない。子どもはそれを待っている。いや、待つではない。子どもは諒を必要とし、諒と学びたがり、諒を信じている。
1人の子どもの学びの事実を克明に記録した。そうすることでその子どもの学びが見えてくるのは当たり前だだけれど、同時に諒の指導の事実が鮮明に見えてきた。それを邪魔しないように、余計なおせっかいにならないように、少しだけ手をひいてみたくなった。
「君の《問い》どこから立てたの?」「ここからここまで」「ここから?」「そう、ここまで」「ここまで?」「そう、ちょっと長いな」「じゃあ、分けてみなよ」「分ける?」「うん、いくつに分けられる?」「ふたつ!」「よし、やろう」「おい、(グループの仲間に)付箋紙持ってきて!」「自分で行きなさい(正しくは、自分で行け!)」付箋紙を受け取ったあと、「1枚なん?」「2枚!おい、もう1枚持ってきて!」「自分で行きなさい(正しくは、自分で行け言うてるやろ)」
子どもは伸びたがっている。子どもは伸びる。
教師は伸ばしたがっている(はず)。だけど、何かが邪魔して伸ばしたいと言えないでいる。
だから僕はおせっかいだけど旅に出ている。