お寺の和尚さんが黒板に字を書きます?

僕のゼミの修了生にお寺の和尚さんになった男がいる。この若い和尚,とにかくいい男で頼れる男。敬愛する弟子の一人だ。

小学校教員専修免許をもったこの和尚から相談があった。「3月に住職たちに板書の仕方を語ってくれませんか。このごろは説法のときに効果的な板書をしたいと思うようになることが多いんです。」とのこと。

板書に大事なのは文字の美しさや配置の巧みさよりも,一枚の大きな板に込められた精神だ。教師の意図と教室の学びの軌跡だ。和尚さんたちに語るなんて,僕にこの仕事は大きすぎるよと断ったのだが,若い坊主の三顧の礼。学生時代から手のかかる,それでいてかわいくて仕方のないこの若い和尚に押し切られてしまった。

いま,お寺の和尚さんたちを前にした3時間をもらった僕は思案中。和尚に説教は不可能,話すだけは無粋,手習いをさせるのもお門違い。むくむくと沸き上がる考えは単元学習。そう,お寺の和尚さんたちとの3時間の単元学習。なかなかいい考えだ,と画策中。

まずは育成を目指す資質や能力。これは「伝えることと伝わること -板書と語り-」。次に学習材。実は少し前から気になっているものがある。2011年からとっておいたもの。文春新書の『弔辞 劇的な人生を送る言葉』を使いたくて仕方がない。