熊本にやってきた。無理を言って授業を見せてもらえることになった。この学校の研究発表会や九州の研究会では表舞台に立つ授業者の普段の授業を見ることができる。わくわくするなんてことばが安っぽい。教室に居られることを有り難いと感じる。子どもと先生のことばの事実をリアルタイムに共有できることが尊い。ぼくは,ひっそりと教室の壁になろうと心がけた。
3年生の「おにたのぼうし」,2年生の「ニャーゴ」。もう何度も何度も参観した作品だ。繰り返し読んだ作品だ。しかし,きょうは違う。この二つの物語は,決して「扱われる作品」ではなく,自分の考えを語るための学習材である。
教室のことばに「わたし」がある。「ぼくは」から語り始められる。先生の問いの答え見つけの授業ではない。先生に自分の考えを語っている。見事だ。見ごたえのある授業だ。子どもにとって考えがい、語りがい、聞きがいのある授業だ。
授業後,給食までの時間は贅沢だった。授業を終えたばかりの二人の授業者を独占した。小さな部屋に3人の声が重なる。終えたばかり,見たばかりの子どもの姿,子どもの声が再現される。そして,そこに教室で授業をはこんだ指導者としての観察や,意図,願いが込められる。贅沢というほかない。僕は一人のファンとして,この二人の先生の事実を聞き,語り,記録した。
彼らもまた,自分の考えを情熱の中で語っていた。