乗り継ぎのこと、あるいは新鳥栖駅の思い出

「乗り継ぎのこと、あるいはフランクフルトの空港の思い出」というタイトルの江國香織のエッセイを読みながらの熊本からの帰り道。ぼくはまさに乗り継ぎの新鳥栖駅でこのエッセイに出会った。そしてこのなんとも言えないカッコいいタイトルをまねして僕も書いてみたくなっている。

素敵な葉書を売っているニューススタンドもハーマンズという名前のホットドッグ屋さんもないけれど、ぼくはこの乗り継ぎ駅でちょっとしみじみしている。

暑い頃だった。僕はこの駅で財布を落とした。鹿児島行きに乗り継ぐためにこの駅で降りなければならなかったのに文庫本に夢中で降り損ねた。次の駅で転がるように降り、タクシーでこの駅に戻り、発車2分前に着いた。予定の新幹線に乗れたのはよかったが、上着を抱きかかえて全力で走ったため、新幹線に乗ったとき上着のポケットには財布はなかった。

40分以上もホームに待たなければならない春先の寒い日。温かいかしわうどんを食べようとしたのにちょっとしたいざこざに巻き込まれて食べ損ねたこともある。余計なことを気にしないでおけば済む話だった。

お忍びの旅ではないが、くたびれた顔を人に見られたくない人と思ってグリーン席に座ったら通路を隔てた隣の席に知り合いを見つけたのもこの駅だ。

以来、この駅では走らない。財布は鞄に入れる。お腹がすいていても他にお客がいるときは我慢する。ホームをぐるりと見渡して知り合いがいたらとにかくこちらから挨拶をする。という具合になった。

しかし、これらのいましめは実は僕に旅がはじまること、あるいは終わりが近づいていることを教えてくれている。

上着の財布を手で確認すると宮崎の果物の色が眼に浮かぶ。かしわうどんの匂いを感じると春のセンバツの雨に濡れた冷たさを思い出す。ホームにいる誰もが知り合いに見えるこの小さな乗り継ぎ駅は旅のすき間を見事に作り上げている。さあ、今度の旅は誰に会うんだいとたずねられているようだし、帰ったら誰に葉書を送るか決めておきなさいよと確かめられているようだ。

そして今日。僕は熊本での3日間に大きな刺激を受け、新たな夢をつくり、帰りたくない気持ちで乗り継ぎを待っている。帰るのが嫌じゃない。3日間が終わるのが嫌なだけだ。この駅は僕を旅の途中に留まらせる。

さあ、明日もこの駅を通る。だけど明日は乗り継ぎではなく通過駅。博多行きの特急の窓からこの駅を見るとき、財布を落としたエスカレーターも、食べ損ねたうどん屋もすっかり油断して平日の午前をやり過ごしている。

2018年1月31日 | カテゴリー : 旅の途中 | 投稿者 : Paul.TATSUTOMI