年明け,考えた。年末に読んだ鷲田清一の「語りの手前で」に立ち止まっていたからだ。
鷲田曰く,
《わたしたちは待つことに焦れて,ついことばを迎えにゆく。「あなたが言いたいのはこういうことじゃないの?」というふうに。語りにくいことをのみ込みかけているときに,すらすらとしたことばを向けられればだれしもそれに飛びついてしまう。語ろうとしてその語りがじぶんの塞ぎをうまく言い当てているか,そのことばの感触をいちいち確かめながらしか語りえないひとにとって,すらすらした物語は一条の光のように感じられる。そしてそれに乗る。じぶんでとぎれとぎれにことばを紡ぎだす苦しい時をまたいで。こうして,とつとつと語りはじめたその能動性の芽が摘まれてしまう。ことばを待って受け取るはずの者のその前のめりの聴き方が,やっと出かけたことばを逸らせてしまうのである。》
『臨床とことば』,河合隼雄・鷲田清一著,朝日文庫
達富考える,「すらすらとしたことばを向けすぎてはいないか」,「能動性の芽を摘んでいないか」,「前のめりの達富が,やっと出かけたことばを逸らせてしまってはいないか」。
さじ加減ということばがある。結果として加減がうまくいったかどうかは分かるが,「今,その時」は少なめにして継ぎ足すしかない。出汁の塩加減も言葉による説明も度が過ぎたからといってやり直すわけにないかないんだから。
学び手(これは,子どもであっても教師であっても)に「ちょうどいい」のはどのような加減だろう。早すぎず遅すぎない集合のためには「5分前集合!」と習った。こういうのは分かりやすい。小学生以来,僕は5分前が基本だ。
では,学び手と対峙するときのさじ加減。どこまで語るか,いつまで待つか。何を語って誘うか,どのように待ってどう語らせるか。
この冬はじめて霜の降りた元旦,お雑煮用のお餅を焼く七輪の炭を組み直しながら考えている。