2月7日。この日を大切に包んでおきたい。そしていつまでも語り継ぎたい日。にがつなのか。
仲間が輝くのは我がごとのようにうれしい。
8時30分。佐賀市立本庄小学校 平田昌志の授業。この学級の子どもの「話す姿」に不自然さはない。話したいから話す。聞いてほしいから話す。話さなければならないから話す。このような本気の「話す」は,思考を自分のほうに手繰り寄せてくる。表現を解き放つ。電子辞書を操りながら,ノートにメモを残しながら,そして,教師の声には素早く的確に反応しながら。教師だけが動かしているのではない授業だからこそ,子どもが自在に思考を深めていく。子ども。その大きな可能性が見える。
9時30分。江里口大輔の授業。「うなずく」と「首をたてにふる」の違いを手持ちの言葉で語る。辞書を使いながら違いを言語化する。そのことがこれからはじまる「ごんぎつね」の読解を作っていくことを知っているのか知らないのか,だけど子どもは言葉を通して自分の考えを形作っていく。そして「ごんぎつね」の6の場面に出会ったとき,「ああ」と教師の導きに目を丸くする。子どもの思考を安く見積もらない教師だからこその45分だ。
14時35分。熊本大学教育学部附属小学校 中尾聡志の授業。前日まで,いや,今朝まで,ちがう,さっきまで練りに練った単元。もしかしたら,まだ考えたりないのかもしれない。単元研究に終わりはない。これまで教えてきた教師の確信とこれまで学び続けてきた子どもの自信。それらが今,ひとつの布になる。「ちがう」「ちがう」「まだあまい」。教師がこんな厳しい声が発するなんて,参会者は思ってもいなかっただろう。だけど,こどもは鮮やかに「だから」「じゃあ」「わかった」と正面から受けている。そう,この教室には厳しさと熱さと柔らかさがある。だからこそ,みんなが心から安心して教師の単元に全身をあすけている。あともう15分あったなら,そう感じたのは,参会者。教師。いや,子どもだ。子どもがもっともっとこの時間が続けばいいと願っていた。中尾は幸せだ。
翌8日。
9時00分。田邊友哉の授業。完全に緊張している。昨日までの彼ではない。この学校に赴任してはじめての研究発表会に飲まれるのはしかたがない。だけど,それが決してマイナスではない。彼は完全に包まれていたから。包んでいるのは彼の学級の子ども。これまでの単元で学んできた実績を,子どもが言葉にして語っている。1年生の語りだとは思えない。学習者としての見事な語りだ。その語りに彼の緊張もとけていく。授業終盤。いつもの学級に戻った。そのあたたかさを見て安堵したのは,小さな教室を埋めた参会者だ。この学校の研究発表会に集まる参会者は,明日からの授業に期待している。だから,こういう授業は授業者もうれしくなる。
10時00分。溝上剛道の授業。授業前の廊下で「ゆうべは眠れたか」と問いかけると「ねてしまいました」の爽やかな笑顔。間違いなくいい授業になる。間違いなく。思えば2年前。彼の附小デビュー。「あんた,聞いとくれ。」という単元から始まった溝上の単元学習。この2年間は並大抵の時間ではなかった。彼の内側から湯水のように湧き出てくる「問い」の量は半端なものではない。源泉掛け流し。その「問い」を一つずつ,確実に解決してきた道のりがきょうの授業だ。見事,圧巻。彼が何歳かは知らないが,僕の教師人生にこのような充実の授業はなかった。彼が先輩中尾の背中を追い続けてきたからこその授業力。見事な師弟関係。花はかならず開く。
仲間が輝く姿は美しい。
授業リフレクション研究会。必ずやります。
もっと素敵な背景で写真を撮ればいいのに、と思われるかもしれないけど、これはわざとのチョイス。
ここは我々の一日の終わりの場所。何度、ここで握手をしたことだろう。
今夜の別れは次回への約束。