本の中にもう一人の僕が

月にいちど。一ヶ月のうちに動いた本を調える。それは,元通りの場所に戻すのではなく,次の一ヶ月を使いやすくするための並べ替え。年末に向けての一ヶ月は子どもと教室を見つめ直すための配置にするつもり。

と,隙間の時間を見つけては本の整理。はしごに上って書架の上のほうの本を降ろしたり順序を変えたりするここ数日。

それなのに,道草ばかり。

「志乃をつれて,深川へいった。」

「堂島川と土佐堀川がひとつになり,安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。」

「風は全くない。東の空に入道雲が,高く陽に輝いて,つくりつけたように動かない。」

「ある冷たい雨の降る秋の夕方,私は郊外のK駅のそばの古本屋に寄った。」

「久し振りのクラス会は,夕方には終わった。」

「ぼくは時々,世界中の電話という電話は,みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。」

すべて諳んじている。それなのに,わざわざそのページを開きたくなる。そして,「そうそう,あったあった。」とその行,その文字,そのページの黄ばみ具合を愛おしく感じている。

すうっと,そのときに戻れる。それは高田馬場近くの穴八幡宮の山桜の木の下。それは大阪環状線の橙色の電車の中。それは,大淀川の河川敷の日差しの下。それは,上五島の赤い屋根の教会の聖堂の椅子。道草はまだまだつづきそう。

きょう,僕は本の中で,もう一人の僕に会ってきた。

そんな気持ちよさに区切りをつけて,本来の本並べに戻る。

と,「ない,ない,見当たらない。」斎藤喜博全集の第1巻が見当たらない。研究室に置き忘れたに違いない。この第1巻こそが,年末に向けた学びのはじめになるはずなのに,それができない。

出鼻をくじかれたことを好都合に,僕はふたたび『忍ぶ川』。ふたたび柴田翔。