小さい頃,父さんや母さんは僕にとっていつも一緒に居る存在であり,近い風景だった。動いている風景だった。
それなのに,今,親父やお袋のことを忘れてしまっている時がある。なんと親不孝なことか。なんと身勝手なことか。自分のことばかりで精一杯になっているとき,自分の仕事が上手く運び有頂天になっているとき,仲間との折り合いがつかずため息ばかりのとき,親を見ていない僕がいる。
見えているだけで見ていない僕。白黒写真のように静止した日常の風景に安心している僕。そんなときの僕の目は澄んでいるはずがない。
いつのまにか互いに互いの無事を祈る存在になっている父や母。心の声が聞こえるとき,情け深い表情が動きながら届くとき,僕が父や母に今を届けようとしているとき,会っていなくても一緒に居るんだと安心できるとき,心がつながっているとき,きっと僕の目は澄んでいるはず。
そう,目の澄んだ者は,大切なことを止まった日常の風景にしない。
僕たちは,教室を日常の風景にしていないだろうか。子どもが動いている教室,子どもの声が響いている教室,子どもが生きている教室。教室を日常の止まった風景にしていないだろうか。
神様,きょう,神様の声が僕のうちに響きます。