てのひらを感じて尊い仕事を

遠出ができないこの冬休み,車でゆっくりと長崎の道を動いた。

雲仙。ここのお湯は本当に気持ちいい。僕の全身を包んであたためてくれる。身体の隅々にお湯を感じて幸せな気持ちになる。誰も居ない岩に囲まれた源泉の満ちた露天風呂で僕は今を感じる。

大海原を泳ぐイルカ。その愛らしい顔,冷たい水を切ってお泳ぐたくましさにしばし時を忘れる。見入る。僕の目はイルカの生命力と美しさに釘付けだ。この非日常的な生き物と僕が同じ「今」を生きていることに不思議を感じる。しかし,長崎この非日常的な姿であるイルカを支えて包んでいる海の水やその水をたたえて守っている地球に目を向けることはない。泳いでいるイルカそのものは見ているのに,海も地球も見ていない。南山中学校の西経一校長先生が言うように,水槽の中の金魚を見るとき,金魚しか見ていないのは,水は澄み,水槽は透明だから(長崎新聞 2021.01.01.)。

自分勝手なものだ。お金を払って温泉につかり,幸せな気持ちになっているときは自分の身体を包んでくれるお湯や岩風呂にはそのありがたみを感じるのに,愛らしいイルカに夢中になり海も地球も見ていない。こんなことって,たくさんあるように感じる。

1月1日。毎年のことだけれど,一年を考える。

今年は,そのものだけではなく,そのものと僕の間にあるものを感じるようにしよう。そのものを包み込んでいる周辺の世界を見るようにしよう。そうすれば,きっと,僕のまわりにある僕の「そのとき」をずっとつないでくれるものや,僕を包み込んでくださっている「てのひら」を謙遜のうちにだいじにすることができるように思う。

授業だって同じだ。手を挙げてしゃべっている子どもだけを見るのではない。その子どもと他の子どもと教師の間にあるもの,「そのとき」をつないでくれるものを感じなきゃいけない。授業を包んでいる「大きなてのひら」を見なけりゃいけない。それらが教室の事実,教室の声だ。子どもそのものだけを対象としているだけではいけないんだ。教室の声を共有し,教室の声に学び,教室の声を謙虚に聞かなければならない。

西校長先生は言う。水や水槽のような働き方を「尊い」という。自分は注目もされず,誰からもほめられることもなく,感謝されることもなく,あたりまえのように働いている人を「尊い人」という。澄んだ水のような尊い母の愛の中で,水槽のような尊い父の力強さに抱かれて私たちはあたりまえに生きてきた。

さらに,
例えば,スイッチを押すと電灯が点く。そのとき,私たちは発電所,電力会社,送電線管理,その電気設備会社で働いている多くの人のことを思い浮かべることはない。感謝などしていない。ただ,押せば点く。そうした状況を造り出す,それをプロフェッショナルといい,「尊い働き」という。

さあ,2021年。
僕の「そのとき」をつないでくれるのは僕の仲間。もっと仲間を感じたい。
僕にとっての「大きなてのひら」。それは神様。もっと神様の声を聞くことができる心になりたい。
尊い働きのできる者になれるよう,例えば僕のことをよく思わない人のことこそ愛せるようになりたい。

新しい一年を迎えられることを神様に感謝し,みなさんの祝福を祈ります。

https://drive.google.com/file/d/1OjBKI5ETs-DGNkhRL8OXr2WScZqfY_eH/view?usp=sharing