「聞く」ことこそ愛することのはじまり

「きく」ことが大事です。ひとりの社会人としていい仕事をするにも、子どもが関係をひらいていくにも、「聞く」力を高めることが必要です。そこで、学生にたずねてみました。「きく」を漢字で表したとき、それぞれどのように印象が違いますかと。

まずは「聴く」。これは、〈一生懸命に聴く〉、〈心を込めて聴く〉〈耳を傾けて聴く〉とのこと。次に「聞く」。これは、〈普通に聞く〉とのこと。普通とは?と問い返すと、「聞こえている」とのこと。そして〈訊く〉。「確かにそれもきくですね」と、言われてから気づく学生もいました。関心は高くありません。

どうやら〈聴く〉の人気が高いようです。「傾聴」という熟語からも、心を傾ける印象が強く、また、「聴」の中に「耳」だけではなく「心」もあることが視覚的にも心を込めているイメージをつくり出しているようです。一方で「聞」には心はありません。

確かに「聴く」ことが大事だと感じる方は多いです。しかし、学生が言う「聞こえている」ことは、「聴く」ことよりも相手を大切に思っていないことなのでしょうか。大人には「聞く」力より「聴く」力が求められるのでしょうか。

私は「聞く」力こそが大人に必要な力だと考えています。それは、一生懸命に耳と心を傾けて「声」を聴き、相手を理解することなど、大人として当然だからです。それよりも、聞こえている「声」から相手の今を知り、相手を受け容れることがずっと尊いことですし、うんと難しいことだからです。

「聞こえる」声から、聞かなければならないことを「聞く」ことは、耳と心を傾けるだけではできません。全身のあらゆる感覚を研ぎ澄ませ、心を開いておくことで「聞く」ことが実現するのです。

「お気に入りの曲を聴く」と言います。確かに、「聴」という漢字が、その曲に入れ込んで期待している気持ちを表現しています。「子どもの声を聴く」からも子どもを大事にしている姿が見えます。

しかし、「子どもの声を聞く」姿には、語りかけてくる子どもだけはなく、「みんなの輪の外からぽつんとつぶやいた子どもの声も聞こえているし、ちゃんと聞いているよ」という平安を感じませんか。「聴」は「聴く」のみで「聴こえる」にはなりません。「聞こえる」からこそ「聞く」がはじまります。「聞く」ことこそ愛することのはじまりなのです。

ただし、わたしの大好きな吉田拓郎さんの曲、「サマータイムブルースが聴こえる」は例外です(笑)

*この文章は長崎の仲間との研究会「番の会」の論集(第5集)に寄稿したものです。