教室の語りは「みんなとひとり」への案内

一昨日,ある小学校で単元への案内の下ごしらえを再現した。この営みを「模擬授業」と呼ぶ人もいる。

この研修会でいちばんメモをとってほしかったのは,この「語り」のときの「案内語彙」と「ポーズ(間)」である。「同じようなこと」を語ってもうまくいかない。教師の都合を再表現しても子どもの上を通過するだけだ。

僕だって上手くない。上手くいかない。すべての子どもを案内できるなんて無理だ。だけど,数えしれない教室に参加してきた。出会った子どもの数はい5桁に達する。この指導事項ならではの学びがいを説明する言葉,この言語活動の可能性を心に染みこませる言葉,どのように考えていけばいいかをまるでやったことあるように感じさせる言葉,そして,それらの言葉と学習履歴と見通しを思考と憧れとしてつないでいくポーズ。

これを聞いてほしい。このことを記録してほしい。

僕のことを「分かってください」とはまったく思わないけど,あの時間がみなさんの次の単元をつくることに役立つものになっていくことは謙虚に期待する。

僕は模擬授業が好きではない。「教師の都合の再確認」会になることが多いから。「時間配分(ここまでで15分)」や「予想される子どものい発言(ここでこんな考えが出てきて)」など,ほんとうに情けない話だ。15分でそのことができない子どもはどうなるんだ,その子どもをどうするつもりなんだ。予想外の発言をどうするんだ。予想する発言ができない子どもをどうするんだ。そうじゃない。学びがいと可能性をできそうだと案内するために必要な事前に行う子どもとの対話なんだ。それが,単元への案内の下ごしらえなんだ。

大事なことは,一人一人の子どもの学びがちゃんと成立するために,教師はどんなことをどのように案内するか,である。

神様,きょうも一日をありがとうございます。