寒い友だちが来たよ!

給食は瓶の牛乳にグラタン。玉葱スープとふんわりとあたたかいパン。やさしい給食。

3時間目も4時間目も,そして5時間目も。給食よりもやさしくあたたかい時間。

校長の口ぐせは「おとなだから」。校長の友だちの口ぐせは「一緒にやろう」。

一緒にやるのは子どもだけではない。子どもが一緒にやるとはかりしれない楽しさが生まれることは知っている。大人が一緒にやれば,ためいきが出るほどの感激が回りを包む。

「問いのレベルが気になります。」
僕はこう答える。
問いのレベルは子どもの学びのレベルです。
発問をしているだけでは見えてこない,子どもの学びのレベルが見えます。
発問で分かるのは,子どものその発問についての理解や記憶のレベルです。
問いを立てる学習で分かるのは,子どもの「学びまるごと」です。

「子ども一人一人に寄り添いたい。」
僕はこう答える。
二人の子どもに対して,同時に寄り添えないなら,一人ずつ寄り添うしかない。
二人の力に差があるなら,同時に寄り添うことはできない。だったら一人ずつ寄り添うのがいい。
きょうの授業は適度な距離と,確かな時間配分で一人ずつに寄り添っていた。
だから二人が認め合っていた。体調が悪くても学びたい気持ちがそこにあった。

「きのうの40の問いを厳選したのですが。」
僕はこう答える。
素晴らしい仕事をなさいました。
教師は教える仕事をするのですから,値打ちのある問いとはどういうものかを教えることは尊いことです。
言葉が足りなければ付け加える。
言葉が適切でなければ書き換える。
値打ちを高めるためにかかわる。
教師はもっともっと問いを立てることにかかわるべきです。
解決に苦戦する問いもあります。解決できない問いもあります。
だからこそ本物の学びになっているのです。
教師から外に飛び出そうとする学びがきょうの6年生にはありました。
これまでは言葉を飲み込んでいた子どもが,きょうは唇をふるわせて表現していた。
これが単元学習なのです。

「友だちとの学びの交流を充実させたいのです。」
僕はこう答える。
対話的な学びはあくまでも手段。
もちろん「話すこと・聞くこと」で対話を教えるときは目標。
話したいから話す。話し合いたくないときはまだ話せない。
だから,切実な話題が生まれるような学びをしたいのです。
まれに,教師の問いが切実な話題になることもあります。
ですが,《私の問い》は常に切実です。
だからこそ,切実な《私の問い》を立てられる力を育てたいのです。

「思考操作はどこまでも具体的でいいのですか。」
僕はうれしくなった。
そうなんです。もっともっと具体的であっていいのです。
いえ,具体的でなければならないのです。
そして,その具体的な「思考操作(思考行為動詞)」はどのように考えるものなのかを教えるのです。
教師は,教えることが仕事なのです。

「指導事項(Aフレーズ)からの問いを立てさせたい。」
僕はこう答える。
だからこそ,この単元はなにができるようになる単元なのかをちゃんと示すことです。
教師だけが結末を知っている劇場型授業をやめましょう。
子どもが果てしない力を発揮し続け,創造し続け,面白いと実感する学習をつくりましょう。
そのためにも,「できるようになる」学校であり続けましょう。

「指導事項と《私の問い》と言語活動がつながっているか」
僕は感嘆した。
つながらなくても学習に見えます。学んでいるように見えます。
子どもも学んでいるつもりになります。
しかし,できるようにはなっていません。
ではどうするか。
つなぐのです。はじめは教師がつなげばいいのです。
すぐに子どもがつなぐようになります。
指導事項と《私の問い》と言語活動がつなぎます。
「こんなこと(A)ができるようになりたい。」
「だからこんなこと(C)をするよ。」
「じゃあこんなこと(問い)を解決しなきゃ。」
「こんなこと」をちゃんと分かり合える子どもって美しい。
「《問い》を解決したら言語活動のここに役立てられるよ」って,言葉にできる子どもを育てましょう。
それって,教師の評価規準を自分の「がんばりどころ」としてとらえている証拠。
教師の手元にある評価規準が子どもの机に乗っかったら,それは「がんばりどころ」になるんです。

「教室のひとつの事実はつながっていますね。」
僕はその通りとうなずいた。
子どもの断片的な学びをつないでいるのは教師です。
と思っているのも教師です。
子どもの学びは断片的に見えます。
事実,子どもの学びは断片的であることが多いです。
しかし,教師がつながなくてもつながっていくこともあります。
教師がつなぎそこねることだってあります。
教室はいろいろです。
ただ,言えることは,教師はつなぎたがります。
そして,
教師は自分がつないだのに,自然とつながっていることにして,そのことをほめるのが上手です。
次はもっとうまくつなぐことができるよ,と教師は子どもを導きます。
だから,教室は育っていくのです。
教師がいるから育ちが軽やかなのは確かです。
教師が案内するから子どもは自覚し,定着していくのです。
子どもは学校の主人公です。
そうなると,教室の主人公は,やっぱり,教師かもしれません。
教える主人公は教師であっていいはずです。

校長が言う。
「私たちは授業の前後,単元の前後の子どもの変容がうれしい。校内研修も同じ。この時間の前と今とで私たち教師が変容できたのなら,きょうはいい一日です。」

僕は,ここに来てよかったと心から思っている。大人が本気で一緒にやったらこんなことができるんだ。

まだ二度目なのに,もう仲間内の気分だ。寒い友だちの気分だ。

だって「遠慮はいらないから楽しんでいきなよ。」って言ってくれる仲間がこんなにいるんだから。

さて,明日の仕事までは自由。サイコロふたつ持って落陽でも見に行くか。