池田雅延の随筆(2017)「考えるという言葉」の中にこうある。
考えるとは,「すでに明白に存在し、誰もが知っているはずのデータを適宜に取り出し、それらを比較し取捨して当面の課題の結論を導く、多くはそういう頭の操作」のことである。
頭のいい人が書くと,どうしてこんなにすっきりするんだろう。
この引用文の「課題」を「学習課題」や《私の問い》とし,頭の操作を「思考操作」とすれば,まさに,まさに,だ。
ちょっと待てよ,と,書棚の研究コーナを確かめる。
僕がはじめて「学習課題」について論じたのは2016年,「国語科単元学習を創造するための検討カテゴリ」という拙論。そこには実践に支えられた考えを綴っているから「学習課題」に取り組みはじめたのはさらに前。よかった。池田雅延の盗作じゃないことははっきりしている。
そこで,ちょっとまとめて見たくなった。
…………
考えるということは,問いを解決しようとしていることです。私たちが何かを考えるのは,そこに「問い」があるからです。人は,「問い」を与えられたときや「問い」に出会ったときに考えはじめるのではないでしょうか。
教室では教師が子どもに問うてきました。私たちが発問と呼んでいる行為は,子どもに考えさせるために問いを発することです。子どもは,教師からの発問によって考えはじめるのです。そして考えたことを教師に答え,評価をもらう。考えて新たな知識や技能を得ることができる直接的で明快な学ぶことの原点とも言えます。
しかし,教室の外では誰が問うてくれるでしょうか。卒業すればそばに教師はいません。大人になれば誰も問いかけてくれません。「問い」がないということは,考えはじめられないということです。それでは私たちの思考は成長しません。
誰かに問われなければ考えはじめられないのではなく,私たちは,自ら「問い」を立て,一人でも考え続けられるように成長する必要があるのです。そのことが生涯学び続ける根底になるからです。
…………