教室の声に学ぶということ

私たちは「教材研究」という用語を当たり前のように使っていますが,教材研究とは何をどのように研究することなのでしょうか。もしかしたら,それはたんなる説明文研究,作品研究で終わってはいないでしょうか。それに少し加えて,言語活動研究で終わっていないでしょうか。作品研究に言語活動研究を加えただけになっていないでしょうか。

学習材であり,教材である作品を詳しく丁寧に理解し,その特性を知ることは重要なことです。ですが,それと同じくらい,いえ,それ以上に大切なこと,忘れてはならないことは,子ども研究です。学習者研究です。

この子どもはどのように学んできたのかり何を学んできたのか。どんな考え方ができるのか。私はこの子どもに,何をできるようにさせたいのか。それはどのようにすれば可能なのか。どのような作品を,どのように扱い,どのような活動の中でどのようにてびきすればいいのか。

子ども研究があるから作品研究が実り,子ども研究があるから言語活動研究が具体的なものになるのです。そのために作品研究が役立つのです。

どのような力をつけることが目標なのか,どのような言語活動を通して学ぶのか。そのためにこの作品がなぜ有効で,どのように活用できるのか。この作品とこの言語活動だからこそ,どのような考え方で目標にたどり着くのか。そのための作品研究であり,言語活動研究でありたいのです。基盤は子ども研究であることはまちがいありません。

子どもがその作品でどのように考えるのかということが具体化されることで,言語活動が価値ある学びとなるのです。

みなさんはきょうの授業の事実をどのように見て聞きましたか。私は前方中央のグループのところに座って授業に参加していました。私は,教室の事実,子どものライブの声を聞くことを大事にしています。きょうの授業では次のような声が大事な声として残っています。

・確かに
・じゃあ
・なるほど
・もっとさあ
・ただ
・〇〇〇みたいじゃん
・ここのところさあ

こんなことばが子どもの思考をつなぎます。こんな言葉が仲間との学びをつないでいます。

・ちょっと待って,もうちょっと時間ちょうだい
・今の質問いいと思う,〇〇どう思う
・じゃあ,〇〇はどう,ちょっと違うでしょ
・僕もなんだけど,書いてないけど,こうじゃん
・教科書にもあったんだけど

粘り強さとはこういう声からはじまる。

・自分は言葉選びがだめなんだけど
・ここに赤い線を引いておきたい
・分からなくはないんだけど,何て言えばいいか引っかかって(物足りないんでしょ)物足りないというか

粘り強さの中に学習の調整がはじまりつつある。

これらの声は「説明文のキーワード」ではありません。かけがえのない「学びのキーワード」です。説明文のキーワードを学びのキーワードが意味づけている。学びのキーワードが生徒の学習を意味づけ,自覚化を形づくっている。生徒が作品で学んでいる。作品の向こう側に,作品を越えて行こうとしている。

私たちは「説明文のキーワード」を発問で取り出させてきました。個別最適化の学習は,「説明文のキーワード」の取り出しだけではなく,「学びのキーワード」を自覚させることで実現できます。

「教科書の説明文はどう書いてありますか」を問うことだけの授業をやめましょう。「あなたはそれをどう読みましたか」を言語化する授業をもとめましょう。「どう書いてあるか」を問うだけではなく「どう読んだか」を言語化することで,自己の考えが形成され,すべての子どもが「学習の主人公」になれるのです。

私たち教師は,その子どもの姿に学びたいのです。

全国のどこかでみなさんとお目にかかれることがあるでしょう。その時まで,教室の事実に学び,成長し続ける教師でいようではありませんか。

………………………………

これは,第51回全日本中学校国語教区研究協議会鹿児島大会の第4分科会で僕がしゃべったこと。

司会が粋な計らいをし、少しの時間を余らせたことでこのコメントの時間が生まれました。ありがとう,名司会者さん。

そこからは新幹線とローカル列車を乗り継いで移動。打ち上げのアナウンスを背に西駅へ。

神さま,きょうも一日ありがとうございます。こんなことばっかりして旅している僕を導いてくださり感謝しています。