小さな小学校の大きな声

北海道から戻った日曜日、長崎は快晴。祝福の日曜日。

愛犬、久しぶり。

五島椿が咲いた。

こんな日は瞳をとじて黙想するのがいちばん。

一昨日の四つの学年の授業は、どれも僕たちを学びにいざなってくれた。

6年。「だから先生、しつこいくらい言ってたんですね。」この言葉は、教師の繰り返す学びどき(Aフレーズ)が子どもに染み込んでいた証拠。だからこそ、今、書き上げた文章のAフレーズにかかわった部分に線を引かせてみてはどうだっただろう。

特別支援学級。思考のスピードと活動のスピードのズレを子ども自身がコントロールできるような機会をつくりたい。ともすれば「同じ」を求めてしまう僕たちは、「違い」からはじめるのがいいのかもしれない。

3年。教師は、子どもが書いたことに感動するだけではなく、書けたことに感動しなくっちゃならない。量と質とスピード。とりわけ、書かなければならないことが書けたとき、子どもは書き切ったことに自ら感動する。感動を書くのではなく、書けたことに感動する。そのとき、「書いたもの」での不確かな評価ではなく、本当の意味で「書けたこと」を評価できるのである。

1年。30分間のひとり学びの進め方をさりげなく示したい。後半の協働学習になるまでの学びを例示して一緒にデザインしたい。そしてそれを黒板に書いておくことで、1年生は安心できる。

実はこれらのことは言語活動を通した学習に限ったことがらではなく、どんな学習においても有効なこと。

言語活動を位置づけた単元学習は、これまでのスタイルを打ち消す考え方ではなく、完成させるための提案なのだ。昭和22年試案、26年試案に始まった現代教育を整理統合した上に、今からの「教えること」がある。

子ども研究をうたうならば、子ども研究の方法を具体化しなければならない。主体的な学びの実現を目指すなら、主体的な学びに役立つ教師の仕事を明示しなければならない。

午後の3時間の協議はかけがえのない時間だった。僕はこの学校にまた来たいと思った。このメンバー、この仲間となら、もっともっと学びたい。

神さま、きょうもいつくしみをありがとうございました。北の丘の小さな実践は大きな声となり、北の大地に響きはじめています。

この小さな小学校の教師たちは、今、できていないことを残念に感じているのではなく、もちろん、やろうとしないことに逃げるのでもなく、できないこと、だけど今から必要なことをやってみることにひたむきなのです。そうすることが、これまでの「教えること」を点検することにもなることを知ってもいます。

できていないことが残念なのではなく、やろうとしないことが残念。

すでにやりはじめ、動きはじめ、高まっている小さな小学校の大きな声がどこまでも白い雪原に響きます。

この小さな小学校、かけがえのない「今」を創造しています。

そうそう、帰り道、空港までの寄り道で食べたほっき貝とほっき貝カレー。北海道にはまだまだ驚かされることばかり。