のび太君は45分間でやり残したことはないだろうか。しずかちゃんにもっとできること(したいこと)はなかっただろうか。教師による「では、きょうは、」から始める授業スタイルでは、のび太はきのうの学び残しを放っておいたままきょうを始めなければならないし、しずかちゃんは本当ならきのうでもできたことを今から始める、というようなことが少なからずあるように思う。
一方、一人一人の子どもが「きのう、僕はここまで進めたから、」「きょうと明日でわたしは、」と始めるスタイルだと、一人一人の学びは途切れていない。学びが連続している。45分の学びを矢印(←)で表すなら、しずかちゃんの矢印の長さに比べてやや短いのび太の矢印ではあるが、短いなりに矢印はつながっている。5時間分の二人の矢印の長さの合計にはずいぶんと差があるかもしれないけれど、つながっている矢印は強い風が吹いても倒れないし、新たな目標を射貫くに十分な強さをもっているはずだ。そんな力をもっている自分に自信もわくに違いない。学びの実感と言ってもいい。
だからといって、教師は何もしないとは言っていない。
教師は教えて教えて教え続ける。ただ、「みんなに教えるということ」と「あなたに教えるということ」は何か、教師として問い続けなければならない。教えるということは「多くのことを伝える」だけではなく、「一人でもできるようにする」こと。そのためには何をしなければならないか。どんな下ごしらえが必要か。いつから準備しなければならないか。そもそも存在する個人差にどう向き合うか。その前に、個人差が見えているのか。
僕のこの「情熱」と「問い」。突っ込みどころ満載のようだ。いろんなところから疑問や揶揄が飛んでくる。そのとがった言葉や嘲笑が心地よいはずがない。
ただ、僕に懐疑的な教師こそがまじめな教師なんだと思う。まじめだからこその葛藤を整理できず、その解決の糸口さえ見つけられず、だからこれまでの方法にしがみつくしかないんだろう。だけど、このままでいいとも思っていないに違いない。
葛藤する教師、教師を目指す大学生につき合うのが僕の今の仕事なんだと思っている。
神さま、きょうもいつくしみをありがとうございます。