教会にたたずんで

さあ,心待ちにしていた天草。フェリー乗り場で簡単な朝ご飯を済ませ,10ヵ月ぶりの天草。

天草の小中学校の先生が集まってくる。僕はその心地よい緊張感を楽しんでいる。

いや,楽しむはずだった。しかし,自分の口から出ることばが自分を苦しめる。これが本当に心を重くする。意気込んでいただけにこの不甲斐ない自分が許せない。講演というのは本当に生きている。LIVEだ。

こんなときは天井の高い教会に身を置くのがいい。翌日,僕はかねてより気になっていた『五足の靴』をめぐるハイキングを楽しみ,10ヵ月ぶりの二つの教会をたずねることにした。

世界遺産になったからだろう。夏休みも始まったからだろう。家族づれ。聖堂に緩やかな空気が流れる。僕の背中に幾重の声。その一つ一つの声の主を想像しながら,僕はその声の無邪気な響きをうらやましく思ってる。大江教会は黙って誰の声も受け止めている。

声はもっと自然でなければならない。声はもっと柔らかでなければならない。声は聞いてくれる人のためのものでもあるんだから。僕の声はまだまだ声になっていない。

もっとありきたりの声を人に届けたい。もっと僕のほんとの声を声にしたい。

崎津教会を後にした僕は,先ほどと同じ道を鬼池港に向かった。と,左手に大江教会。先ほどとはまったく異なった景色に息をのむ。

LIVE,いや,そうじゃない。「生きている」ということだ。講演もそう。LIVEじゃない。もっと「生きている声」を届けなきゃいけない。教師としての生活を生きた言葉で届ける。ただそれだけのような気もする。

天草。深い祈りの地で,僕は深く深く自分を見つめることになった。

心地いい床と食事と仲間の笑い声。今回も天草ならではの宿に僕は包まれた。

そうそう。崎津教会ちかくに気になる看板があった。

口之津港ちかくにも。