まさに子どもの主体的な学習。一人一人の子どもが、学習課題から「私の問い」を立て、 その解決策を考える。そしてグループで協働的に話し合って解決策の質を高めていく。それにより問いが更新されていく。そんな教室。黙々と、そして時に声が高まり、 あるいはグループを移動して学びを共有する教室。そこには教師の発問だけに反応すればいいと考える子どもはいない。教師の指示を待つこともない。45分間、学び浸っている。
このような授業を見にきたある教員がこう言 った。
「なんで自習を見に来なあかんねん。 教師はなに手を抜いてんねん!」と。
自分の「授業を見る力」のなさをはき出したこの教師のことを、僕は残念で哀れに思った。
授業後の協議での我々の語りには的外れなこともある。まとまっていないのに語り出して恥ずかしくなったこともある。
しかし、それぞれが、 その時点でもっている授業論を言葉にして表現することが大切だと思う。授業参観が冷めないうちにとにかく言葉にするから値打ちがある。それは授業者への敬意であり、教師としての責任であり、自身に課す最低限の教師の仕事である。
みんなで授業を語り、みんなで魅力ある教室を創りたい。そこに僕も居たい。それだけだ。
授業が行われた事実、その授業を見た事実。どちらもかけがえのない一度きりの事実だ。