一生懸命であるということ

きょうは福岡県京築地区の小学校国語教育研究大会。

3年生と4年生の授業者の一生懸命さに惹かれた。単元づくりも一生懸命。きょうの授業の導入も一生懸命。机間指導ももちろんそう。個別の指導も丁寧で一生懸命。

二人の教師の授業を観察して束ねて所見するのは失礼なんだけど、両授業とも同じように一生懸命だからこそ、同じように目に映る。違いはもちろんあるんだけれど、それ以上に共通する丁寧さに惹かれた。

翻って、僕の全体講演はどうだったんだろう。慣れからの緩みはなかっただろうか。疲れからの雑さはなかったろうか。奢りからの不遜はなかったか。

きょう一日が僕の本来の姿の仕事でありますようにと、願って出かけたのに、若すぎる美しさを見て心細くなっている。

僕のしたかったことはなんなんだろう。

と、壮からのメール。僕たちの仲間、藤岡浩の指導が生きている報せ。

ヒロシ、乾杯!