なんでもないようなこと

大学院のゼミ生のゆきさんと一緒に小学校の授業を参観する機会が多い。同じ教室に立っていても,同じ教室が見えていても,見ているものは違う。授業後にそれぞれの観察について語り合うのが楽しい。先日は,授業だけではなく,授業後の協議会にも参加してもらった。授業者やわたしに届けられる参会者からの質問に,ゆきさんは「自分ならどうこたえるか」を考えていたらしい。彼女はきっと力をつけていくにちがいない。

きょうのゼミでは単元学習について話し合った。単元学習が価値ある学習として展開し,一人一人の学習者の学びの軌跡としてまとまっていくためにはどんなことが必要だと思いますか,というわたしの問いに,ゆきさんは,少し間をおき,少し息をのんで,プリントの端をとんとんと整えてから,「教師は,なんでもないようなことを確実に行うことだと思います」と短く答えた,彼女はもっと力をつけていくにちがいない。

ゆきさんの先輩にあたるともみちさんとも何度も教室に立った。彼は,教室でわたしの後ろに立ち,わたしと同じように教室を見ることを心がけていたようだ。あるとき,「あの板書の順序を逆にしたらどうなるかな」と彼にたずねてみた。わたしからの突然の質問に,彼は誠実にこたえてくれた。先ほどからそのことについて考えていたかのように。おそらく,本当にずいぶん前からそのことについて考えていたに違いない。無駄のない彼のことばからそのことが分かる。彼はもっと力をつけているに違いない。

先日,彼が「授業を見る目が鈍ったかもしれない」と漏らしたそうだ。現職だから日々の授業の連続にそう思うのは当然だ。しかし,現職だからこそ、そんなことはない。今,学習者の声の中で生きているんだから。学習者の声とまなざしと息づかいに包まれているとき,わたしたちはなんでもないようなことこそが大事なことだということに気づく。そして,学習者の声とまなざしと息づかいの中で,その大事なことがなんでもないようにできていくようになる。なんでもないようなことをなんでもないようにできる。そんな日に向かって彼はきっと力をつけているに違いない。