「このおしゃべりは何を言いたいのだろう。」「こいつはおかしな考えの宣伝をする者らしい。」と言われていることは知っている。確かに僕はおしゃべりかもしれないし,伝統とは異なったことも語っているように見えるのかもしれない。
「あなたが説いているこの新しい考え方がどんなものか,知らせてもらえないか。」「奇妙なことをわたしたちに聞かせているが,それがどんな意味なのか知りたい。」とたずねてくれる人もいないわけではない。しかし,「教師の都合の発問はひかえましょう。」ということを聞くと,「それについては,いずれまた聞かせてもらうことにしよう。」ということになる。
僕たち教師が一つの大事なことを創り上げるなら。
そのためには,
子ども自らが自分の幸せを実現していくためにはどのような学ぶ力をつけなければならないかを知り,その実現のために僕たちが知恵と勇気を分かち合ってつながることだ。
「受け容れる」中で何かを飲み込まなければならないときもある。
「命を育て,守る」という大きな案内に従うことが大事なときもある。
僕がほんとうにやりたいことは,おしゃべりや宣伝ではない。
僕がやりたいことなど何もない。
自分のしたいように生きるなんて,なんとも滑稽だ。
すべての子どもが幸せに向かって学んでいくために,大人には何ができるのか。
そのことにはちょっとだけ関心はあるけど,今の僕に何かができるなんて思いもしない。
したいことをするより,望まれたことをするだけだ。
何かを声高らかに説きたいはずがない。
それは,一人でできるものではないんだから。
それは,みんなでつないでいくものなんだから。
その答えは,数年後の子どもの中にあるんだから。