校内研修のあとはなぜか僕も謙遜

きょう,三週間前にも話しに行った学校を再訪した。みなさんとの距離も小さくなり,心地いい。

「子どもの《私の問い》を立てさせることができる教員になりたい」という年齢を超えた一生懸命な姿はそれだけで謙遜にうちにある。僕はそういう時間が大好きだ。

満足しました。心が穏やかになりました。教師としての力が伸びたように感じます。などの声を聞くと来てよかったとしみじみする。

交通事故でもあったのか,大渋滞の帰り道。迂回に迂回を重ねて,道を探し,結局,高速道路を使うことにした。

気がつけば,先ほどまでいた小学校の近くに戻ってきている。苦笑。

だけど,この運転しながらの時間に謙遜についてとらえ直すことができた。

謙遜のうちに生きるということは,貧しく生きることと重なる。貧しさとは求めるのに足りないことではない。自分を見ないであれもこれもと欲張ることでもない。何もないことを知ることだ。自分には何もないことを知るからこそ貧しさを受け容れることができる。

神様,きょうも一日をありがとうございます。謙遜と清貧,そんなことに少しだけでも心を向けられたきょうは僕にとって美しい一日です。さて,明日は久しぶりの天草。みんなに会いに行くよ。