そんな時,ぼくは考えてる

後期の授業が始まる前,それまでの半年間のさまざまな資料の片付けをする。前期が始まる前も同じ,新しい学期が始まる前には,それまでの半年間の整理をしなけりゃ落ち着かない。

しかし,やってみると思っていたほど残しておかなければならないものは多くない。捨ててもいいものばかりだ。あれもこれもと整理していくと残るものはわずか。じゃあ,1年前のものはどうだったのだろうと手を伸ばす。それほど残っていなかったものがさらに少なくなる。ではさらに1年半前のものは?2年前のものって何があったっけ?と思いつつ,しなくてもいいことまで手をつけるのが恒例の9月と3月。部屋の片付けはくたびれるけれど気持ちのいいものだ。

でもそれは単純作業だけではないからこそ楽しい。一枚の資料からつながるいろんな思い出。しっかり覚えている一片。小さな書き込みからひろがるそのときのぼくのひらめき。思いがけない言葉から思い出されるやりきれなかった思い。置き去りにしたあの瞬間。万年筆のインクからそのときの声が聞こえる。片付けはモノの片付けだけではなく,そのときの「今」をもう一度確かめることかもしれない。だからこそ,ぼくは考えてしまう。

きょうはその日。「今」を片付け,あの時の「今」を確かめる日。 ぼくがぼくを意識する日。自覚する日。  

いつもは拓郎さんの歌かモーツァルトのコンチェルトを聴きながらの片付けなんだけれど、どうしてもきょうはAMラジオ。9時前からの中継が続く。リズムのない音声。流れ続ける中継。それも聞こえなくなりながら,ぼくは片付け続ける。教授会の資料。授業のプリント。旅先でのメモ。もらった手紙。《ラジオの声》文脈が思い出せない魅力的な断片。なんのメモもない白紙。《ラジオの雑音》学会のプログラム,領収書,割り箸の袋。《ラジオからの大きな声》《繰り返される聞き手をもたない主張》《ののしる声》《自分だけの文脈》《十分とは言えない判断力に支えられた自信満々の言葉》・・・・・・。

そういえばこの頃は・・・・・・,そういえばこの時・・・・・・,そういえば半年前の・・・・・・と考え始めている,いつの間にか。例年よりも桜が早かったことも,一人の欠席もないまま続いた授業のことも,何度も訪れた鹿児島のことも,思いの外うまくすすんだあのできごと・・・・・・。そうそう,高校野球。今年はいつもよりも地方大会に熱が入った。雨の二回戦で悲鳴をあげた同級生。高校野球最後の打席をしつらえてもらった背番号20のキャプテン。甲子園をめざす高校生はそれだけで美しい。

甲子園の開会式の日は鹿児島県出水市にいた。ぼくの講演よりも鹿児島実業の猛攻に会場が沸いていた。懇親会は国語科単元学習の話題よりも甲子園。そう甲子園。開会式での選手宣誓。京都代表,鳥羽高校の梅谷主将。そう,あのさわやかな球児の唇からこぼれる一言一言に心うたれた。真摯な言葉は聞き手の胸を打つ。「8月6日の意味」。そう,そう。そうだ。8月6日,9日,15日をまたいで行われる夏の甲子園は日本の夏なんだ。今,白球を追いかけることができる幸せ。大地を駆ける喜び。青春の賛歌。ホームベースをはさんで礼をする尊さ。美しさ。

そんなことを考えている。こんな時だからこそ,ぼくは考えている。ラジオを流しながら考えている。「今」を考えている。「これから」を憂えている。きっとラジオの中の話し手の聞き手はぼくじゃない。日本中の多くの「ぼく」がこのやりとりから放り出されている。