北の夜明けは早い。4時前にはすっかり明るい。得した気分で朝の散歩。海岸線を歩いたり。教会でお祈りしたり。
さすが馬の里、新冠。ホテルの朝食券が馬券スタイルになっている。
北のごちそうに大満足。校長先生の車で小学校に向かう。途中、いたるところで馬が駆けている。食んでいる。
きょうは長い研究になるだろうと、北海道の天然水を買ってくれた。
小学校に到着。
森のような小学校。
さっそく4年生の授業。
子どもの学びどきを見抜くことは教師の力。教師の教えどきの逃さないのも教師の力。学びどきと教えどきが織りなすこの包み込まれるひとときが授業。見事な時間だった。
お昼は給食。もちろん、北の大地の馬鈴薯。
さあ、午後は2年生の教室。
ワークシートは教師の都合になりやすい。だから子どもが作るノートを大事にしている。
とはいえ、教師が学びどきに鈍くなってはいけない。だから、ノート観察を大事にする。大事にし過ぎると子どもは自分が書き切ることよりも教師に見せることに意識が向く。
このさじ加減。これも学びどきと教えどき。
評価規準はチェックポイントではなく、がんばりどきの目印。
新冠町立朝日小学校、いいじゃないか。
授業後の研究協議。素晴らしかった。
単元づくりに垣根はない。大人数だって複式学級だって。特別支援教育も日本語教育もどれもがいちばん大事だ。すべてがいちばんであることはまちがいない。
そのことに真摯に向きある教師たちの話題提供に僕はこれまでの経験の言葉をかき集めて組み立てる。その緊張感、ほんの少しの楽しみ、そして、僕の話を聞いてくれる教師たちの表情が緩む瞬間。さらにわずかな空気が動くような瞬間、そう、教師たちの次の《問い》が生まれる瞬間を肌で感じ取りながらの研究協議。
圧巻だった。ここが北海道であることを忘れている。ここは大村はま先生が見てくれている研究のための教室だ。本気の教師たちの息づかいが一つになると、それは時に息がつまりそうになるくらい強く、重く、同時に美しい。
新冠町立朝日小学校、本当にいいじゃないか。
視覚的にとらえることを有効な手段として学びに取り入れること。賛成。その通り。だからこそ、そのことを学びの後半に「思考操作」の言葉で自覚させること、定着させることが大事。そのひと手間が子どもを育てる。
決して質が高いとは言えない《問い》をどうするか。もちろん放っておかない。ちゃんと教えること。賛成。その通り。《問い》を立てること立てさせることに私たち教え手も習熟しているわけではない。子どもたちも初めての体験だ。だけど《問い》を立てることは必要なことだ、尊いことだ、大切なことだということは分かっている。だからこそ研究心に溢れていて、やってみたくて、だけど、ちょっととらえどころのない魅力的な教師たちの学び。そこから目をそらさない新冠町立朝日小学校の教師たち。
出会えたことに感謝。僕が道のこっち側しか歩こうとしていなかったら出会えていなかった。だけど、道には両側がある。たどり着きたいところまで歩くには、道のどちらか一方の側した歩けない。だから、僕は自分の都合のいい側だけではなく、道を歩くすべての子どもとすべての教師と一緒に生きていきたい。
「先生はあの瞬間、どこを見て、何を考えておられたのですか。」と授業者にたずねた若人。
「きょうは参観者だったから聞こえただけで、授業者だったら聞いていなかったと思います。」と語った謙虚な教師。
「はじめまして」なのに、「はじめまして」じゃないでしょ、と勘違いしそうになるくらい居心地いいこの小学校。
またすぐ来ますから。
神さま、きょうも一日ありがとうございます。僕は道の向こうを見ることなしに自分の都合で歩くことばかりですが、きょう朝の海辺への散散の帰りに、山の手にも足をのばしてみました。すると、小さな小さな聖堂が見えました。ホテルのすぐそばだったのに。
道の向こう側に足をのばさなければ手を合わせることも十字を切ることもなく一日をはじめてしまうところでした。いつもそばにいてくださってありがとうございます。アレルヤ。