茶畑の見える教室

大きく開けられた窓から秋の風が届く。教室の中の熱気のことを知らない風はのんきなものだ。担任の先生はネクタイまで濡らしそうな汗をかいているのに。

中学生の声が心地いい。魅力的なひらがなをつかっているから。

中学生の発話の中の「漢字」は背伸びしている。そんな背伸びの漢字が黒板に書かれる。ありがたい言葉のように,その学習の正解のように。

中学生の「ひらがな」は心の態度を見せてしまう。思春期の「ひらがな」には自分が出てしまう。思わず,思いがけず,あるいは,思いのままに。出てしまう。出せてしまう。教室の生徒はみんなその発話を聞いているんだけど,自分も同じ「ひらがな」をもっているからその特別さに気づかない。

だったら,元中学生だったわたしたちおとなはその「ひらがな」に気づきたい。「ひらがな」に気づけたら,生徒とぐっと近くなれる。生徒がわかる。生徒がいとおしくなる。だって,その「ひらがな」にはその人との距離感や懐かしさや尊敬や大好きの「ふさわしさ」が隠れているんだから。

そんなこと考えながらぼくは授業を眺めてる。この授業が終わったら,このクラスの生徒たちとあそこの茶畑でかくれんぼしたいなあ。